【今週はこれを読め! エンタメ編】「もしも」を考えさせられる短編集〜平野啓一郎『富士山』

文=高頭佐和子

  • 富士山
  • 『富士山』
    平野 啓一郎
    新潮社
    1,870円(税込)
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 あの時、もし違う選択をしていたら、今頃どうなっていただろう。

 そんなことを考えたことが、誰にでも一度くらいはあるのではないだろうか。運命を左右するのは、悩みに悩んで出した答えや固い決意だけではない。ちょっとした思いつきや偶然によって、人生が大きく変わることもある。無数にある小さな分岐点のどこかで、別の方向に進んでいたら、今頃違う仕事をしていたり、他の人と結婚していたり、命を失っていたのかもしれない。もう一人の自分がいる世界について考えずにはいられない出来事を、この短編集の主人公たちは経験する。

 表題作『富士山』の主人公・加奈は、マッチングアプリで知り合った津山と、新幹線で浜名湖に出かけようとしていた。二人が出会ったのは、コロナが流行し始めた半年ほど前の時期である。直接会う機会は少なかったのだが、津山に悪い印象はなく、結婚相手として真剣に考えていた。富士山が見える席に座るため、ひかりよりも時間のかかるこだまを津山は予約していた。20分遅れで停車した小田原駅で、加奈はふと窓の外に目を向ける。反対側の新幹線に乗った少女が、助けを求めるサインを出していた。

 その後の出来事がきっかけとなり、加奈は津山とはもう会わないことに決める。その選択に迷いはなかったはずだった。だが、加奈はその後意外なところで彼の名前を見つけ、津山とのあり得たかもしれない未来について何度も考えることになる。津山が別の新幹線を予約していれば、ダイヤが乱れていなければ、小田原駅で反対側に止まった車両に目を向けなければ、二人は一緒に富士山を見て、今とは違う関係になっていたのだろうか。

 私たちは自分で決めた人生を歩んでいると思っているけれど、本当にそうなのだろうか。自分で選んで手に入れたつもりのものも、少しの偶然で得られなかったかもしれない。深く考えさせられる短編が続き、最後に掲載される「ストレス・リレー」では、ストレス社会の構図がこれでもかというくらいリアルに描かれる。毎日イライラしながら生活をしているすべての人に読んでいただきたい小説だ。

 「ルーシーは、英雄である」という一文から、物語はスタートする。ルーシーって誰?という疑問は、すぐに忘れて小説の中に取り込まれてしまった。最初に登場する会社員・小島は、赴任先のシアトルから一時帰国しようとしている。空港で起きたちょっとした出来事と搭乗した飛行機の遅延により溜め込んだ疲れと怒りが、羽田の蕎麦屋での店員の応対により爆発する。接客のミスを小島に怒鳴られた店員は、夜中まで母親を相手に泣き続ける。そういう娘の性質に疲れ切っていた母親は、高校の同級生から来た同窓会の出欠確認メールを無視してしまう。同窓会の幹事である不動産会社社員は、返信をよこさない同級生への苛立ちを発散するために、同僚たちを飲み会に誘って悪酔いする。うんざりした部下の青年は......。

 ストレスはウイルスのように伝染し、拡散されていく。自分も登場人物の一人なのではないかと思うような臨場感である。どの人物も感じが悪いが、決して極悪人ではない。きっと本当は、愛すべきところもある人々なのだ。疲れていて、傷ついていて、イラついていて、誰かにぶつけられたストレスを、うまく流せない。誰にだって、そういうことはあるだろう。彼らに代わっていいわけをしたくなるくらいだ。最後に登場するのが「英雄」である。どんな人物なのかは、ぜひ小説を読んでいただきたい。

 私たちは、自分ではどうすることもできない運命のもとで生きている。選択をやり直すことも、時間を戻すこともできない。だけどきっと、こういう「英雄」にはなれる。私だって、なれるのだと思う。

(高頭佐和子)

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