【今週はこれを読め! コミック編】「文字通り」に意外な物語〜河野別荘地短編集『足が早いイワシと私』

文=田中香織

  • 足が早いイワシと私 〜河野別荘地短編集〜 (ヒーローズコミックス わいるど)
  • 『足が早いイワシと私 〜河野別荘地短編集〜 (ヒーローズコミックス わいるど)』
    河野 別荘地
    ヒーローズ
    792円(税込)
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男が一人、道端に座っている。靴磨きのようにも見えるが、傍らには「足洗い一日千円」と書かれた看板と、水を張ったたらいがある。一方、男に声をかけた客の足には「お酒」「不倫」「タバコ」「おやつ」といったさまざまな単語が浮かんでいる。

男は客が希望したとおり、足からたらいへ「競馬」の二文字を器用にはがす。こうして客の心からは「競馬」が抜け落ち「足洗い」は完了するが、店じまいのさなか、たらいの水を自らの手にかけてしまった男は、帰宅途中に見かけた馬券売り場へと吸い寄せられて──。

思わず「ふふっ」と笑ってしまった。慣用句が、こんな形で物語になるなんて。本書はwebや漫画雑誌上で発表された9作と、描き下ろしの1作を収録した短編集である。冒頭で紹介した作品は「足を洗う」というタイトルだが、他のいくつかの短編でも、題名に沿った「文字通り」な物語が意外な形で進行する。

さて、うっかり競馬に手を染めた男は、自らの足洗いをするべく自宅で奮闘する。なにせ「足洗い」なので、手にあるままでは落とせない。どうすれば文字を足まで移動できるのか。男の地道な努力の末には、さらなる展開が待っていた。

洗えるものなら私だって、我が足に浮かんでいるはずの「怠惰」や「遅刻」や「物忘れ」といった文字を洗い出してみたい。だが、それもまた自分の一部だと教えてくれるのも、足洗いの男だ。ちなみにこの物語は、「ネオ足を洗う」というタイトルでセルフリメイクされ、本書の巻末に収録されている。著者の作品解説によれば、元々は「大学生の時に描いた漫画」で、今回は14年の時を経て「今の表現で描き直した」そうだ。同じ話であっても絵やコマ割りが違うと印象がだいぶ変わるのは面白く、じっくりと読み比べた。

表題作の「足が早いイワシと私」も、味わい深い一作。恋愛に疲れた会社員の女性が、ある日スーパーで手にした一尾のイワシ。ひょんなことから始まった奇妙な共同生活に終わりが来た時、彼女が気づいたささやかな事実は、新生活へと踏み出す確かな力へと変わる。

他にも、不足していた睡眠時間を取り戻そうと、体が冬眠に入り始める男性を描いた「冬眠休暇」や、仕事の効率アップのために派遣された「監督」と会社員の女性との二人三脚を描いた「労働監督」もたまらない。働き疲れた人に、そっと差し入れたくなる作品ばかり。全編、静かだけれど確かなおかしみで満ちている。

表紙のイラストやデザインもさることながら、中表紙に描かれたイワシのリアルさとカバー下の愛らしさのギャップが微笑ましい。ぜひ紙の本で、ページをめくって楽しんでほしい。

(田中香織)

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