
作家の読書道 第98回:藤谷治さん
現在、青春音楽小説『船に乗れ!』が話題となっている作家、藤谷治さん。主人公の津島サトルと同じく音楽教育を受けて育った少年は、どのような本と出合ってきたのか。幅広いジャンルの本と親しみ、大学生の頃にはすでに小説家を志していた青年が、デビューするまでに10数年かかってしまった理由とは。藤谷さんが経営する下北沢の本のセレクトショップ「フィクショネス」にて、たくさんの本に囲まれながらお話をうかがいました。
その5「本のセレクトショップをオープンする」 (5/7)
――「フィクショネス」をオープンしたのは何年ですか。
藤谷:1998年です。10年間サラリーマンをやって、もう上司とか部下がいる環境に耐えられなくなったんです。好きにさせてくれって気持ちがありました。儲かるかどうかなんて考えなかったですね。むしろ、忙しくなると小説を書く時間がなくなるから、儲からないほうがいいと思っていたんです。そうしたら、予想以上に儲からなかった(笑)。
――こちらに置かれてある本は、藤谷さん独自のセレクトによるものですよね。
藤谷:僕が薦められる本を、神田村に行って買いきってしまうんです。お客さんによって合う合わないはあると思いますが、5冊手にとれば少なくとも3冊は面白い、というセレクションにしたいと思っていたんです。それから、同人誌などの持ち込みを断らない。ここは下北沢ですから。
- 『羊たちの沈黙 (新潮文庫)』
- トマス ハリス
- 新潮社
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- 『いつか棺桶はやってくる』
- 藤谷 治
- 小学館
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――古いものも新しいものもある。クロフツの『樽』やアイリッシュなどのミステリーの名作から、『モンテ・クリスト伯』、『居酒屋』、大江健三郎や遠藤周作も...。正直、トマス・ハリスの『ハンニバル』があるのは意外ですね。
藤谷:あ、それは僕が読もうと思って買ったんです。でも面白くなかったなあ。今考えて思うとけれど、小説家になるまでに時間があった分、小説に対しての時間はあったんですね。そうするとトマス・ハリスなんて『羊たちの沈黙』が出た時には当代一の流行作家みたいな扱いを受けたけれど、今そう思っている人はいませんよね。そういう諸行無常の変遷を見てきましたね。本屋に勤めていた頃には、なるべくたくさん並べて、ダメだったら返しちゃおうという出版流通の形を見て、子供の頃にカフカが素晴らしい、ドストエフスキーはポリフォニーだなんて言っていたのとは全然違う、シビアな目、俗な目というものを嫌ほど植えつけられましたね。一方で子供の頃からの文学至上主義といっていいような、芸術的な本というものに対するロマンティックな気持ちは取れないですね。だから自分の書くものに対しては少なくとも戦略的にはなれないんです。これを書いたら売れるとか考えられない。逆に『船に乗れ!』や三島由紀夫賞の候補になった『いつか棺桶はやってくる』は、人のことを考えずに書いたものですから。
――書店で働いたことによって植えつけられた俗な目、というのは。
藤谷:何も知らない芸術至上主義の少年青年時代からいきなり出版流通業界に入って同僚たちと話すと、「私も読書家なんですよ、好きなのはシドニイ・シェルダンとか」と言う。それが、僕が本に対して抱く敬意や憧れとは違うもののように思えてしまって。でも、それが現実なんだと思ったし、それが僕にとっての成熟というものでした。
――いってみれば聖と俗、両方の視点を抱えて書くというのはしんどかったですか。
藤谷:それが書くってことでしょう。口幅ったいけれど、子供の頃に読んだドストエフスキーとかディケンズの生々しい気持ちが分かるような気がします。彼らは何をおいても、金のために書いたんですよ。作曲家の話に託して『船に乗れ!』にも書いたけれど、僕はいいものを作らなきゃ干されるという気持ちで作られるのが芸術だと思うんです。最初から生活を保障されていて、「藤谷さんが書けば何でも売れますよ」と言われてブログの抜粋を片端から本にしていくようなことは、僕にはできない。『罪と罰』は売れた、でも『悪霊』は売れるか分からない、というところでドストエフスキーだって書いている。ディケンズだって、自分の雑誌に連載小説を書いていたけれど、それが面白くなかったら雑誌そのものがつぶれちゃうんだから。そういう中で芸術たらんとするという、それは芸の一種ですよね。芸としての芸術が本当の芸術だと思います。そのヒリヒリした感じというものを、いい気分じゃないけれども植えつけられて思い知らされたって意味では、サラリーマンの10年間は無駄じゃなかったと思う。でも10年は長かったなあ。