『手紙』ミハイル・シーシキン

●今回の書評担当者●HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代

  • 手紙 (新潮クレスト・ブックス)
  • 『手紙 (新潮クレスト・ブックス)』
    ミハイル シーシキン
    新潮社
    2,592円(税込)
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「サーシャへ」「ワロージャへ」。
 若い恋人同士の無邪気な手紙のやりとりで始まる物語。出征した青年ワロージャと故郷に残された恋人サーシャは、幼い日の思い出や、初めて結ばれた日のこと、一緒に居たときには語られなかったこと、両親や家庭環境、ふと思い出したささいな出来事、そして会えない寂しさを手紙に託している。

『今すぐ、あなたをぎゅって抱きしめたい。なんでもいいから、とってもくだらなくて、とっても大切な話をしたい。』

 読み進めていくと、不思議なものを感じずにはいられなくなる。何故なら彼の戦死の知らせをサーシャが受け取った後もなお、文通は続くのだ。やがて、二人はそれぞれ別の時代を生きているのだということに気づく。サーシャは現代のモスクワに、ワロージャは1900 年の中国でロシア兵として義和団事件の鎮圧に参加している。時代も場所も超えた二人の手紙。サーシャは確実に歳を重ね、ワロージャは青年のまま、次第にそれぞれの物語として独り立ちしていく。

 ワロージャとサーシャ、それぞれが書く手紙の内容は、それぞれの人生の物語として小説が成り立つほどの豊かな内容だ。

 歴史的悲劇に直面するワロージャは戦争のむごたらしさを体験して過酷な状況にあるが、そこから逃れるように以前の自分や、母と継父との日々を回想する。手紙を書くことで自分を保ち、サーシャに語りかけることが唯一の希望なのだ。自分が存在するしていることについての不思議を、死にぎりぎり近づいた今、ようやく気付いたとしたためる。

『もう一つ反省していることがある。僕は君と一緒にいたときに、いくらでも愛情を表現する機会があったのに、そんな風に考えもしなかったことだ。今じゃもう君は遠すぎて、何もしてあげられない。ーこんな所まで来てようやく気づいたんだ。』『僕はこれまで、誰にも何も与えてこなかったっていうこと。些細なことを抜きにすれば、一度だって、本当に誰かに何かを与えたって言えるようなことをしていない。ずっと、周囲から与えられるものを受け取っていただけで、僕自身は誰にも何も与えていない。』

 一方サーシャは失恋や結婚や流産、継子との関係に悩み、親の看病と死など、様々な困難を乗り越えて長い人生を歩みゆく。生きることも死ぬことも容易いことではない。人が悲しいこと辛いことの現実に人生を乗っ取られず、回復していくために必要なものはなんだろうと考えさせられた。

『たぶんね、本物になるためには、自分のなかじゃなくて──自分の意識なんていうものは、眠ってしまえば自分が生きているのか死んでいるのかさえもわからなくなるような頼りないものだからね──、だれかほかの人の意識の中に存在しなくちゃいけないんだ。それも誰でもいいわけじゃなくて、僕の存在を大切に思ってくれる人の意識の中に。いいかいサーシャ。僕は、君がいるっていうことを知っている。そして君は、僕がいるっていうことを知っている。そのおかげで、僕は、こんな酷い、滅茶苦茶な場所にいても、本物でいられるんだ。』

 手紙は互いの元に届いていたのか、届かなかったのか。解釈は委ねられている。手法はとても幻想的だが、読んだ後残るのは、彼らが互いに人生の細部を語り、打ち明け合う姿だった。手紙は恋人への甘い語らいから、人生の荒波を経た者の大きく安らかで純粋な慈しみに変わっていく。彼らの再会を夢想せずにはいられない。

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HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代
HMV & BOOKS TOKYO 鈴木雅代
(旧姓 天羽)
家具を作る仕事から職を換え書店員10年目(たぶん。)今は新しくできるお店の準備をしています。悩みは夢を3本立てくらい見てしまうこと。毎夜 宇宙人と闘ったり、芸能人から言い寄られたりと忙しい。近ごろは新たに開けても空けても本が出てくるダンボール箱の夢にうなされます。誰か見なく なる方法を教えてください。