『回遊人』吉村萬壱

●今回の書評担当者●ときわ書房千城台店 片山恭子

  • 生きていくうえで、かけがえのないこと
  • 『生きていくうえで、かけがえのないこと』
    吉村 萬壱
    亜紀書房
    1,404円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 ひとには、出会うべくして出会う「時」があるのだと、ある作家の作品を通してそのことを実感している。今はその作家の文章しか受け付けないという程どっぷりハマっている。岸和田に縁の作家を、これまで読んでこなかったことが悔やまれる、いや今でなかったらこれほどまでに面白いと思っていたかは正直わからない。その作家とは、吉村萬壱氏だ。

 最新刊の『回遊人』から始まり、文庫化された『臣女』、『ボラード病』と遡って読んでいる。エッセイの『うつぼのひとりごと』、『生きていくうえで、かけがえのないこと』(若松英輔氏と同タイトルで刊行)まで読んだところで、こちらのコーナーの締め切り日を迎えたので、今回は『回遊人』を。(そして次に読む本は2015年刊行の『虚ろまんてぃっく』と決まっている。)

『回遊人』は、タイムリープ小説だ。主人公の江川浩一は44歳。デビューして6年、専業となって2年の書けなくなっている作家だ。2年前に出した純文学系小説『ブラッド・キング』が現時点での最新刊だが、別の作家のベストセラー小説『ブラック・キングダム』と時々間違えられる。

 浩一には妻の淑子と七歳の息子の浩がいるが、淑子の大学時代からの友人・亜美子の肉体への妄想をやめられない。スランプを脱すべく、プチ家出した先で入った中華料理屋の床に落ちている怪しげな白い錠剤を拾い宿に持ち帰り、これを飲み込むことによって開ける新たな局面に作家生命を賭けてみることにする。妻子への遺書を書き残して......。

 二度目に読んだとき、読み返さなければ気付かなかったいくつかの点がある。これは緻密に計算され尽した仕掛けなのか、偶然そう読めてしまうのかわからず、唸ってしまった箇所がいくつかあって、作品世界の深みにみるみる嵌ってしまった。面白すぎる。何なのだろう、このやみつき感は。

 過去に戻ったとき、元の世界の記憶が残ったままでなければ意味がないだろうが、その記憶を抱えたまま「意のままにならない人生が繰り返される」とき、その徒労感はたとえようもない虚しさを覚えるものなのだろうか。幾度も繰り返されるタイムリープがその体内を蝕みゆくさまは恐ろしく、しかしこれが本当に時を回遊することの「なれの果て」のようではあるまいか。

 面倒ごとから逃れたいという弱さ、狡さを隠さず無様な姿が描かれるところに、これ以上ない切実さが感じられる。そう、切実なのだ、この作家の書く世界は。きれいごとに倦んでいると感じている人は、ストレートに胸を打たれるに違いない。

 巨大化する妻の排泄物と格闘する姿を執拗に描いた場面の衝撃が今も焼き付いている『臣女』を読んだ時もそうだったが、あまりにも深すぎる愛の姿は、目を背けたくなるほどの痛ましさと同時にこのうえなく澄み切った美しさをも感じさせる。これは何かに似ている、と思ったとき、不意に泥沼に咲く蓮の花が思い浮かんだ。

« 前のページ | 次のページ »

ときわ書房千城台店 片山恭子
ときわ書房千城台店 片山恭子
1971年小倉生まれの岸和田育ち。初めて覚えた小倉百人一首は紫式部だが、学生時代に枕草子の講義にハマり清少納言贔屓に。転職・放浪で落ち着かない20代の終わり頃、同社に拾われる。瑞江店、本八幡店を経て3店舗め。特技は絶対音感(役に立ちません)。中山可穂、吉野朔実を偏愛。馬が好き。