『鐘の渡り』古井由吉

●今回の書評担当者●あおい書店可児店 前川琴美

 あちらとこちらの境。自分と他者の境。過去、現在、未来。いつの間に混ざり合い、溶けたのだろう。暮らした女を亡くした朝倉と、これから女と暮らす心づもりの篠原が並んで歩く、その道行きは終着点まで交わらないと思って読んでいるとあっという間に迷子になる。

 でもそれは心地よい心許なさでもある。死んだのは誰だったか、女と肌を重ねたのは誰だったか、いつから曖昧だったんだろう。

 思えば床を並べて聴いた鐘の音が始まりだった......峠道を先に進む朝倉は、人の道が夜目にもかすかに光るのは「人のからだには燐が含まれているからな、息に吐いて、汗に滲んで、道にこぼして行くんだ」と篠原に語る。まるで、死者とつながっていた自分の燐を生者のお前に浴びせたのだ、と言わんばかりに。

 この物語で肉体同士で番うのは篠原とこれから暮らす女だけだ。しかし、通じているのは、山の中で鐘を聴いた朝倉と篠原のような気がする。でなければ先を行く朝倉の厚い背中から滴るような肌の匂いを篠原が嗅ぎ取ったりしないのではないだろうか。

 ここの情景は絶句するほどなまめかしい。二人が佇む風景描写にはセクシュアルで濃密な「燐」がほとばしっている。林が燃え上がり、雲が割れ、光が射し、枯れ葉が狂ったように輝きながら降り注ぐ世界。死者に近い朝倉と、生者に近い篠原、二人の永遠に近いような一瞬間。「何の同意を求めたのか。何が通じ合ったのか」の一文は体の奥の情動がうごめくような読書体験だ。

 その後、二人は道を違え、篠原は女のもとで熱を出して寝込むのだが、そのまどろみの中で鐘のことを語った朝倉の声を「女と深く交わった後の声」だと、その横顔を「女と交わって精をを尽くした男の頬の痩け」たようだったと篠原が後から思い返すさまは、何故か性的なぬめりをそぎ落としている。そうだ、頬が痩けているのは朝倉ではなく、篠原だ。危ない。境が交錯している。

 二人しての幻聴を、「交換」の鐘の音を篠原は再び聴いたのだろうか。答えは「ひろがりにひろがり」たゆたっていく描写の中に消えていく。渡っているのは鐘か、それとも篠原その人の魂か。飛翔する意識、混ざり合う時間と空間。ああ、日本語はここまで自由で豊かだったか、と感嘆してしまう。

 寒空の下で聞こえた子供の囃し声は「あしたのお天気はご飯」だ。意味はもう輪郭をなさない。子供は生者の世界の人物か、篠原の魂は今いずこ。境を彷徨うこういった寄る辺ない感じをどこかで知っているような気がする。例えば夏目漱石の「夢十夜」に。例えば内田百閒の短編に。気が付くとそのあわいに既に足を踏み入れているような、鐘を共に聴いて渡る愉楽をあなたにも味わって欲しい。そして「ひとりの眠りを、大勢が眠っている」体験を是非。

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あおい書店可児店 前川琴美
あおい書店可児店 前川琴美
毎日ママチャリで絶唱しながら通勤。たまに虫が口に入り、吐き出す間もなく飲 み下す。テヘ。それはカルシウム、アンチエイジングのサプリ。グロスに付いた虫はワンポイントチャームですが、開店までに一応チェック! 身・だ・し・な・み。 文芸本を返品するのが辛くて児童書担当に変えてもらって5年。