『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日』中村安希

●今回の書評担当者●忍書房 大井達夫

  • インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸 684日
  • 『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸 684日』
    中村 安希
    集英社
    1,620円(税込)
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 ノンフィクションなのに、レイモンド・カーヴァーの小説みたいだと思った。もちろんカーヴァーの小説に出てくる女の子は、突然始まった生理でズボンを濡らしたまま、積載上限重量の倍の荷物を載せたトラックにしがみついてサバンナを南下したりしない。しかもそのトラックが道半ばでぶっ壊れ、進退窮まって横になったら熱まで出てしまう。毎朝鼻血が止まらず、慢性の下痢と定期的な偏頭痛を抱え、優しくされては悩み、冷たくされては憤り、中国から東南アジア、名前の最後にスタンのつく国々をうろついて、紅海の「悲しみの門」を漁船で渡ろうとして失敗し、漂着した海岸からようやく鉄道のある集落にたどり着き、乗った列車の車輪が折れ、次々に故障する路線バスを乗り継いで、たどり着いたケニアでこのざまだ。日本人と離婚歴のあるガイジン男は、彼女に「別れた妻と瓜二つだ」という。著者はつまり、「別れた妻顔」なんだろう。でなければ元妻の顔を覚えていないのだ。彼女は世界に疎外感を感じている。そして、それはまだ消えていないらしい。

 人生は些事に満ちている。その些事にまともに取り組むためには、足りない時間をやりくりするしかない。星新一の父で製薬王といわれた星一(はじめ)は、なぜ結婚しないのかと問われて忙しくてその暇がない、といった。面倒なので病気にはならないことにした、大変なので死ぬのはやめた、といった。そりゃ結構なことで。実際に飛行機事故にあったときも、一人泳いで漁船に助けられ事なきを得た。だからいっただろう、死なないことに決めたんだ(大意、最相 葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』)。
 モンゴルでカナダ人から聞いたヒマラヤの旅の情報は、断崖絶壁に刻まれた細い道を猛烈な速度のバスで移動し続けるというもので、生きた心地がしなかったという。同じ道を行くしかない彼女は、アドバイスを求めた。できれば危ない目に会いたくない。カナダ人の答えはこうだ。「自分の中にフェイス(信念)を持つこと。自分は絶対に死なないと、信じることくらいかな」(ネパール〔謁見〕)。うわあ、それじゃ星と同じじゃないか。

 世界を支配する法則や事実を受け入れることができないとき、ヒトはそれを無慈悲といい理不尽という。理不尽は、世界と私たちの間に横たわる深い溝である。アフリカでどんどん乗り物が壊れていくのは、文明国の使い古しがやってくるからだ。アフリカは乞食じゃない。でも、みんな良かれと思ってお下がりをもってくる。アフリカの幸せは、二流の文明国になることではないはずなのに。さまよい人は、人々の願いと祈りが無様に行き違う様子を目の当たりにし、しばし呆然としてから、この溝を埋めるためにできることはないのかと、その場に座り込む。人間とは、間違った方向にしか努力できない存在なのではないかとかすかに疑いながら。ヒリヒリした感情を思い出したいヒトに、オススメです。

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忍書房 大井達夫
忍書房 大井達夫
「のぼうの城」で名を挙げた、埼玉県行田市忍(おし)城のそばで20坪ほどの小さな書店をやってます。従業員は姉と二人、私は社長ですが、自分の給料は出せないので平日は出版社に勤めています(もし持ってたら、新文化通信2008年1月24日号を読んでね)。文房具や三文印も扱う町の本屋さんなので、まちがっても話題の新刊平台2面展開なんてことはありません。でも、近所の物識りバアちゃんジイちゃんが立ち寄ってくれたり、立ち読みを繰り返した挙句、悩みに悩んでコミック一冊を持ってレジに来た小中学生に、雑誌の付録をおまけにつけるとまるで花が咲くみたいに笑顔になったりするのを見ていると、店をあけててよかったなあ、と思います。どうでえ、羨ましいだろう。