『BORN TO RUN』クリストファー・マクドゥーガル

●今回の書評担当者●忍書房 大井達夫

  • BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族
  • 『BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族"』
    クリストファー・マクドゥーガル
    NHK出版
    2,160円(税込)
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 1994年8月16日15時半、私は便ヶ島から入山して南アルプス縦断5日目、標高3000メートル悪沢岳肩の中岳避難小屋にいた。小屋の中には料金表がはりだしてあり、素泊まりのみ2500円とある。高いなあ、でも管理人はいないみたいだし、お金どうするんだろ、と思っていた。それでまあ、明日登るはずの塩見岳の方を見ながら夕食を食べていたら、前岳の方から何か小さなものが猛烈なスピードでこちらにやってくる。
 
 何だろうなあ、と思っているうちに小さなものは人間の姿になり、地下足袋のおじさんが登山道を走ってこちらにやってくるところだということがわかった。いや本当にその速さの凄いこと。そのおじさんが目の前までやってきて、息も切らさず「はい、小屋代2500円」というのだ。おじさんは尾根筋を下ったところにある高山裏小屋の管理人で、ここの料金徴収も任されてるらしい。高山裏小屋からこの避難小屋まで直線距離で約3km、その上標高差が700mある。岩だらけの登山道は、地図では往復5時間半かかる。それじゃ時間ばっかりかかって大変でしょうと聞くと、そうだ俺も自分の小屋の客の世話しなくちゃならねえからな、でもまあ1時間あれば往復できるからなんとかつとまるんだ、などという。

 うわー。いくら荷物ないからったって、3時間くらいはかかるんじゃないかと思って聞いているのにアナタ。たしかにおじさんの速度は尋常じゃなかったけど、歩く速度の5倍以上って、これはもう想像を絶してます。それも、夏の間毎日のことでしょ?

 本書を読んでいて、高山裏小屋のおじさんを強烈に思い出した。おじさんもタラウマラ族のレースに参加すればいい。ヤツらきっと、地下足袋を欲しがるに違いない。著者は、異常な時間と距離を尋常ではない速さで走り続けるサンダル履きの驚嘆の部族タラウマラを取材するうちに、ランナーの足の故障はもしかすると高機能シューズのせいなんじゃないか、と考えるようになる。そればかりではない。人間の身体がいかに<長く>走るのに適しているか、ということに気がついてしまう。適正な履物を履いて毎日走るのは、人間本来の自然な姿なのだ。著者が突き止めたのは、走らないヒトはもはやヒトではない、という事実だった。ヒトは走るために生まれてきた。ならばもう、走るしかあるまい。

 中岳避難小屋から、私はさらに4日かけて北岳まで歩き、それから芦安温泉に下ったが、毎日毎日、気分はなんとも爽快だった。あの時と同じようにまた歩けるだろうか。また山歩きがしたいから、今朝もお店を開ける前に走りに出かけようと思う。毎日のように走っても、距離も伸びず時間も縮まらない。時々オレは一体何のために走るのか、と思うこともあったが、本書を読んでからは考えが変わった気がする。ゆっくりでいい。オレは、走るために生まれてきたんだから。人生に希望が足りないヒトはぜひどうぞ。オススメです。

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忍書房 大井達夫
忍書房 大井達夫
「のぼうの城」で名を挙げた、埼玉県行田市忍(おし)城のそばで20坪ほどの小さな書店をやってます。従業員は姉と二人、私は社長ですが、自分の給料は出せないので平日は出版社に勤めています(もし持ってたら、新文化通信2008年1月24日号を読んでね)。文房具や三文印も扱う町の本屋さんなので、まちがっても話題の新刊平台2面展開なんてことはありません。でも、近所の物識りバアちゃんジイちゃんが立ち寄ってくれたり、立ち読みを繰り返した挙句、悩みに悩んでコミック一冊を持ってレジに来た小中学生に、雑誌の付録をおまけにつけるとまるで花が咲くみたいに笑顔になったりするのを見ていると、店をあけててよかったなあ、と思います。どうでえ、羨ましいだろう。