『ソングライン 』ブルース・チャトウィン

●今回の書評担当者●忍書房 大井達夫

  • ソングライン (series on the move)
  • 『ソングライン (series on the move)』
    ブルース・チャトウィン
    英治出版
    3,024円(税込)
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 アボリジニはそれぞれ固有のトーテムと先祖伝来の旅の物語をもっているのだという。旅の物語は一連の歌として記憶され、歌いながら実際にその道のり、ソングラインを歩くことが要求される。名前は命のかけらだという。世界に名前をつけ、呼びかける作業は、世界を創造するのと同じ行為なのだろう。ソングラインは地図であり、自分は何者かという問いに対する答えであり、なによりもアボリジニの生きる行為そのものである。

 本書はドキュメンタリーではない。ノンフィクションですらない。事実と創作をないまぜにして作り上げた物語として読むのが正しい。後半部分には大量の引用文が次から次へと現われ時空が交錯し、なんだか黙示録でも読んでいるような気分になるが、おそらくこれはアボリジニと彼の物語のように、歩きながら読むことで理解が進むようにできているのだろう。朝まだ暗いうちにライトの明かりを頼りに山道を歩くとき、考えていることを目に見えるようにまとめたら、おそらくこんな感じになるに違いない。菊版上製500ページは歩き読みには向かないと思いきや、意外やこれが苦痛ではない。不快になるほど重くはなく、書籍として充分な存在感が両手に感じられる。ソングラインが思考を歌の形で身体化する試みなら、本書はそれを紙と文字で実現しようとしたのではあるまいか。

 本書をいくら読んでも、ソングラインやアボリジニに関する知見を深めることはできない。その代わり、かつて誰もが一度は自問したであろう「どうして僕はこんなところに」という、苦くて切ない問いが胸を満たす。作者は若き日に放浪の思い断ちがたく、会社を辞めてパタゴニアに旅立つ。そのときに携えていたのは松尾芭蕉「奥の細道」だったという。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず。人には漂泊が必要なのだろうか。年をとるのは悲しいことだ。そんなことすら、わからなくなってしまった。

 ずいぶん昔のことだが、江戸時代から続く仙台箪笥の店、熊野洞さんでシート式オルガニート(手回しオルゴール)を買った。あちこちに穴の開いた厚めのロール紙を通してハンドルをくるくる回すと驚くくらい美しい音が出る。機械部分(ムーブメント)は専門業者の出来合いだが、神代ケヤキと漆で仕上げた箱が熊野洞さんらしいのだ。本書を読んでいて、しきりとこの箱のことを思い出した。穴あきシート(ソングライン)をムーブメント(アボリジニ)に潜らせると音楽が鳴り始める。チャトウィンと旅の相棒が、自分の聖地まで連れていってくれという男を乗せて車で移動していたときのことだ。彼のソングラインに差し掛かると、男は左右の窓からせわしなく身を乗り出し、早口で何事かをまくし立て始めた。男が歩く速度で覚えていたソングラインを、車は5倍の速度で走っていたのである。男は彼の物語を、身振り手振りを交えて早回しで歌い上げていたというわけだ。

 律儀な男の可憐なエピソードがグッとくる。人は歩くために、走るために、さすらうために生まれてきた。さすらい人の胸の高鳴りを、忘れかけているアナタにオススメです。

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忍書房 大井達夫
忍書房 大井達夫
「のぼうの城」で名を挙げた、埼玉県行田市忍(おし)城のそばで20坪ほどの小さな書店をやってます。従業員は姉と二人、私は社長ですが、自分の給料は出せないので平日は出版社に勤めています(もし持ってたら、新文化通信2008年1月24日号を読んでね)。文房具や三文印も扱う町の本屋さんなので、まちがっても話題の新刊平台2面展開なんてことはありません。でも、近所の物識りバアちゃんジイちゃんが立ち寄ってくれたり、立ち読みを繰り返した挙句、悩みに悩んでコミック一冊を持ってレジに来た小中学生に、雑誌の付録をおまけにつけるとまるで花が咲くみたいに笑顔になったりするのを見ていると、店をあけててよかったなあ、と思います。どうでえ、羨ましいだろう。