『昔日の客』関口良雄

●今回の書評担当者●忍書房 大井達夫

 マルチン・ルターは1517年秋、ヴィテンベルグ大学の神学教授のときに、「教会の権限で罪の許しに課せられる償いを軽減する」贖宥符の効力を批判した「95ヶ条の意見書」を書き、ライプツィヒ討論では公然と教皇権を否定した。聖書に書いてもいないことを正しいと言い張るなんて、おかしいじゃんか。ルターの宗教改革は、聖書を読み込むことから始まったのだと佐々木中は『切りとれ、あの祈る手を』の中で書いている。経緯はともかく、ルターは聖書を読んだ。読んでしまったからには、読み込むしかない、と彼は考えた。彼は教会が定めた法を否定した。なぜなら、聖書には書いていないからである。その空白を埋めるために、法律を定めた。新しい法を支えるのは「神の判断」ではなく、「人々の良心」であった。なぜなら、聖書には書いていないからである。革命は読書により起こった。そして結果的にルターの革命は、人々の暮らしを根底から変えることになってしまった。

 佐々木はルターの「本の読み方」を見習うべきだと言うのである。決定的に人生を変えてしまう本を、徹底的に読み込むべきだと。本読みとして私も、そういう本と出あうことを望んでいる。恋はするものではない、おちるものだという。いまさら色恋沙汰は気恥ずかしいが、それに似た読書ならしてみたい。しかし、私が凡人のせいだろう、これは、と思う本は何冊かあったのに、食指は勝手に動き出し、新しい本を探し出しては読み始めてしまう。変わるかと思った人生も、いつの間にか元の通りに戻っている気がする。
 
 島田くんにとって『レンブラントの帽子』と本書は、ルターの聖書みたいなものだったのではなかったか。ルターと一緒にされても困るだろうが、本書に限って言えば、「心中してもいいと思った」とまでいっている(http://www.mishimaga.com/hon-watashi/057.html)。夏葉社を興した島田くんとは、偶々知り合いだったに過ぎない。じゃあ読んでみっかあと手に入れた本書の、センスの良さに舌を巻くことになる。本読みとしてだけでなく、出版社社員として、本屋のオヤジとして、およそ本に関係するすべての立場で羨ましいったらない。だから、内容についてはここでは触れない。気になる向きはアマゾンのレビューでも見たらよいと思う。イジワルしているのではない。言うべきことが見つからないのだ。

 東えりかは高野秀行『腰痛探検家』の解説で、「彼(高野)には特殊な人を引きつけてしまう、不思議な磁石があるようだ」と書いている。中島らもがアポーツ(呼び寄せ)と称して好んで書いていたのと同じものだと思う。私が神戸で大学生だった頃、そういう人を「バカ磁石」と呼んでいた。磁石だから、強さはガウスで測るのだろう。高野のガウスは高そうだが、島田君のガウスもかなり高いのではないか。呼び寄せられるにまかせれば、なにやら楽しいことがありそうな予感もする。夏葉社自体が、オススメです。

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忍書房 大井達夫
忍書房 大井達夫
「のぼうの城」で名を挙げた、埼玉県行田市忍(おし)城のそばで20坪ほどの小さな書店をやってます。従業員は姉と二人、私は社長ですが、自分の給料は出せないので平日は出版社に勤めています(もし持ってたら、新文化通信2008年1月24日号を読んでね)。文房具や三文印も扱う町の本屋さんなので、まちがっても話題の新刊平台2面展開なんてことはありません。でも、近所の物識りバアちゃんジイちゃんが立ち寄ってくれたり、立ち読みを繰り返した挙句、悩みに悩んでコミック一冊を持ってレジに来た小中学生に、雑誌の付録をおまけにつけるとまるで花が咲くみたいに笑顔になったりするのを見ていると、店をあけててよかったなあ、と思います。どうでえ、羨ましいだろう。