『かかし長屋』半村良

●今回の書評担当者●丸善書店津田沼店 沢田史郎

 例えば18世紀後半、寛政の頃の江戸の裏長屋にちょいと思いを馳せて頂きたい。

 そろそろ陽が沈もうかという刻限、どこぞで活きのいい魚を貰って来た源さんが上機嫌で一杯始めようとしたところ、「いつも良くして貰ってるんだから、隣の辰吉さんにも分けておあげよ」と、さすがに女房は気が回る。そこで源さん、薄い壁一枚で隔てられた貧乏長屋のこと、わざわざ迎えに行くまでもないと、ドンドンと壁を叩いて呼ばわった。「おうい辰よぅ、旨いもん貰ったから食いに来いよ! 余分の茶碗なんか無いから自分の持って来な」「お、そいつは豪儀だねぇ。すぐ行くよ!」

 そんな情景を活写したのが次の川柳。

【椀と箸 持って来やれと 壁をぶち】

 私はしばしば、江戸庶民のこんな温もりに触れたくなると、『かかし長屋』に手を伸ばす。
 浅草は大川沿いの三好町。近所の証源寺が、貧乏人救済のために建てた裏長屋。住人たちは食うや食わずのかっつかつで、かかし並みの着たきり雀ばかり故、ついた綽名が「かかし長屋」。そんな吹き溜まりのような場所ではあっても、世間並みにめでたいこともあれば災難も湧く。とある娘の嫁入りが決まったかと思えば、河原に土左衛門が上がったり、毎日何かと騒がしい。証源寺の忍専和尚は、大家と言えば親も同然、これ以上は落ちないようにと何くれと無く世話を焼く。

 そんな或る日、忍専の助けで盗人稼業から足を洗い、かかし長屋で地道に暮らすようになった勘助のところへ、昔の盗賊仲間が尋ねて来て......。

 といった手に汗もののストーリーも然ることながら、本書で味わって欲しいのは、助け合うことで貧しさに打ち勝ってゆく、庶民たちの思いやりと連帯感。

 例えば物語の後半、弥十という若者に願ってもない婿入りの話が舞い込んで来る。ところが彼は、気の良い長屋の連中を残して行くに忍びなく、どうにも態度が煮え切らない。そんな弥十を、長屋の姑役、おきん婆さんは声を張り上げて叱咤する。

【(みんな)ここから出て、もっといいとこで暮らそうと夢見てるんだよ。出られたもんを誰が悪く言うもんか。出てっておくれ、後生だから。それでみんな張り合いが出るってもんだよ】

 貧しい暮らしの中にも小さな希望を見つけて喜び合い、襲って来る不幸せには肩を寄せ合って対抗する。そんな忍専やおきん婆さんたちに、レオ・レオニの『スイミー』(好学社)をダブらせたと言うと突飛に聞こえるかも知れないが、小さくか弱い小魚たちが団結して大きな魚を追い払う姿は、かかし長屋で寄り添いながら世間の荒波を乗り切る彼らとそっくりで、それは取りも直さず、現代に於いて日々厄介事に翻弄される我々庶民への、応援歌であると私は思う。

 上を見てはキリが無いのは、昔も今も同じこと。だが、かかし長屋の住人たちは悲観しない。向こう三軒両隣には、同じ境遇で助け合う仲間がいるのだから。

【夕立に 取り込んでやる 隣の子】

 そんな連係プレーに気持ちを温めて欲しくなったら、『かかし長屋』がお薦めでござる。

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丸善書店津田沼店 沢田史郎
丸善書店津田沼店 沢田史郎
1969年生まれ。いつの間にか「おじさん書店員」であることを素直に受け入れられるまでに達観致しました。流川楓君と身長・体重が一緒なことが自慢ですが、それが仕事で活かされた試しは今のところ皆無。言うまでも無く、あんなに高くは跳べません。悩みは、読書のスピードが遅いこと。本屋大賞直前は毎年本気で泣きそうです。読書傾向は極めてオーソドックスで、所謂エンターテインメント系をのほほ~んと読んでいます。本屋の新刊台を覗いてもいまいちピンとくるものが無い、そんな時に思い出して参考にして頂けたら嬉しいです。