『ノエル』道尾秀介

●今回の書評担当者●丸善書店津田沼店 沢田史郎

「人間は感情の動物である」というのは、かのドラえもんが「ムードもりあげ楽団登場!」で言及している程の公理である。故に古今の名文家たちも、感情の描写には殊更神経を使ってきた。

 分かり易いのは「断言型」だ。【山椒魚は悲しんだ】、【メロスは激怒した】などがその好例。誰が何と言おうと悲しんだ、と。
【春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ】は「責任転嫁型」。駄目だよ、そぞろ神のせいにしちゃ。
【ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう】。これは「曖昧型」と名付けたい。要するに悲しいのか悲しくないのか?(笑)

 そして、我らが道尾秀介さんである。今や押しも押されもせぬミステリー界の牽引役であるだけに、読者をアッと言わせる技巧にばかりついつい注目しがちだが、実はそれ以上に、描き出される心象風景の鮮やかさこそが魅力的なのだと、全世界を敵に回してでも主張したい。その証拠が、新作『ノエル』だ。

 まずは、圭介という童話作家が登場する。年は30を少し越えたぐらいか。高校の同窓会に出席するため14年ぶりに故郷の駅に降り立った彼は、かつてこの街で暮らした十代の日々を、とりとめもなく振り返る。母一人子一人で貧しかった家庭。イジメられていた中学時代。現実から逃れるために綴った拙い物語。そして、弥生との出逢い。二人で創った絵本。不器用な恋......。
 圭介の書いた物語に弥生が絵を添えるシーンがある。彼女の横で圭介は、黙ってその指先を見つめている。静まり返った部屋には、自分たち二人っきりだ。その時の彼の心境は? ドキドキしていた? 照れ臭かった? 緊張していた? 頭が真っ白? どれも間違いじゃないと思う。でも道尾さんは、こう描く。

【手の動きが止まるたび、彼女の呼吸音が微かに聞こえてきて、その呼吸と自分の呼吸が合いそうになると、何故か慌てて息をついでタイミングをずらした】

 人間の心は、悲しいとか嬉しい等という一色では決してない。悲しみの中にも安堵があったり、喜びながらも不安を感じていたりと、様々な感情のモザイクだ。無論、この場面での圭介も然り。そのモザイク模様を、これほど鮮明に読者の脳裏に浮かび上がらせる言い方が、他にあるだろうか!? しかも、感情を表す単語など一切使っていないにもかかわらず、だ。これこそが、ミステリーとしてのサプライズ以上に、道尾さんの真骨頂であると断言したい。

 ストーリーの中では、圭介の綴った童話は何人かの人物に受け継がれてゆく過程で、彼らにもう一度前を向く勇気を思い出させる。そしてその時、ストーリーの外では、読み手であるあなた自身もこの物語に救われているに違いない。即ち『ノエル』という作品は、「物語の可能性」を高らかに謳い上げたという点で、エンデの『はてしない物語』(岩波少年文庫、他)にも類する傑作であると言ったら大袈裟だろうか。

 圭介の童話が人々の心に希望の灯をともしたように、『ノエル』が皆さんに幸せをもたらすことを確信している。

※冒頭の引用は順に『山椒魚』(井伏鱒二)、『走れメロス』(太宰治)、『奥の細道』(松尾芭蕉)、『悲しみよこんにちは』(フランソアーズ・サガン/河野万里子[訳]、新潮文庫)、でした。正解者の中から抽選で100名様に、何もあげません。

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丸善書店津田沼店 沢田史郎
丸善書店津田沼店 沢田史郎
1969年生まれ。いつの間にか「おじさん書店員」であることを素直に受け入れられるまでに達観致しました。流川楓君と身長・体重が一緒なことが自慢ですが、それが仕事で活かされた試しは今のところ皆無。言うまでも無く、あんなに高くは跳べません。悩みは、読書のスピードが遅いこと。本屋大賞直前は毎年本気で泣きそうです。読書傾向は極めてオーソドックスで、所謂エンターテインメント系をのほほ~んと読んでいます。本屋の新刊台を覗いてもいまいちピンとくるものが無い、そんな時に思い出して参考にして頂けたら嬉しいです。