『ツンドラ・サバイバル』服部文祥

●今回の書評担当者●進駸堂中久喜本店 鈴木毅

 僕の母ちゃんは子どもの頃、家族で富良野に住んでいた。
 家族で畑を耕し、馬や牛、鶏を飼い、ジイちゃんは羊毛で小遣い稼ぎをするために羊を飼っていた。
 母ちゃんは一頭の羊にピーちゃんと名付け生まれた時から世話をしていた。
 ある日叔父が訪ねてきて、夜は宴になりジンギスカンが振る舞われた。
 母は泣きながらピーちゃんを食べたという。

 また足を骨折した馬を殺し、庭の木に吊るして解体したことも。
 自給自足と言う訳ではなかったが、昔は飼っていた動物を自宅で殺し、食べる事はよくあったという。50年以上も前の話であるが、僕が子どものころに母ちゃんからその話を聞いてショックを受けたことを今でもよく覚えている。
 だってジンギスカンを食べていた時だったから。

 さて、今回は、食料を現地調達し、沢を遡り、藪を漕ぎ、装備では電化製品である時計やラジオ、灯火類さえも持たず山を登るサバイバル登山の先駆者である服部文祥という人の本を紹介したいと思う。

 服部氏のサバイバル登山を記した『サバイバル登山家』『狩猟サバイバル』そして最新刊『ツンドラ・サバイバル』がみすず書房から刊行されていて、これをもって正伝服部文祥トリロジーと呼ぶ(僕が勝手に呼んでいる)。

 第一作『サバイバル登山家』と僕が出会ったのは、人文系出版社合同の「四六版宣言」というフェアであった。その中でひと際異彩を放つ表紙が目に留まった。イワナの皮を口で剥いているドヤ顔の服部氏の表紙である。当時フライフィッシングを始めたばかりの僕は、その表紙に魅せられて迷う事無くレジに足を運んでいた。

 本書の冒頭、服部氏がサバイバル登山を始める前の1993年の知床半島縦走。食料をキツネに盗まれ、その後運悪く三八豪雪以来の大雪が知床に直撃し停滞を余儀なくされ死を覚悟した話は真に迫る。なんとか知床岬に着き、岸に打ち上げられた昆布とウニを食べ、驚いたエゾシカが崖から落ちて絶命したのを目撃し「大きな哺乳類の目から命の輝きが消える瞬間を初めて見た」という。

 その数ヶ月後パキスタンのフンザで見た肉屋の話。服部氏の目の前で肉屋の男が石で牛を殴り殺し、解体して肉を売っていくのを目にして、「僕は肉屋のように牛を殺すことができるだろうか。もしできないなら、僕に肉を食べる資格があるのだろうか」と食への考えを改めていく。

 そして服部氏はサバイバル登山を始めていくのだが、この頃はまだ山菜キノコ図鑑を持参していたり、釣った岩魚を主食していて、職を失って食を求めた24日間にわたる日高全山ソロサバイバルではラジオも持参している。

 また、山中で学生の登山グループと出逢い、「泊まり場が同じだとすれば、久しぶりに変わったものが食べられるかもしれない」とお恵みを期待していたり、「藪を飛ぶように逃げていく鹿が転んで崖から落ち、食料に変わらないかと何度も期待した」と北原白秋の童謡「待ちぼうけ」のような心境に陥っていたりと、まだ手探りの登山に、恐怖と不安、他者への依存、そして自然への畏敬の念がヒシヒシと伝わってくるのである。

 本書で語られる「ロボットに岩魚は釣れない」という言葉がとても好きである。
「竿とイトで二つの命がつながっている。魚と自分をイトでつなぐことで、釣り師は自分の命を魚に映している」とも。

 僕が初めて自分の力で魚を釣り上げた時、自然と繋がったことを感じた。自然の営みに介入できたと言ってもいい。フライフィッシングは毛鉤を使い、魚が普段捕食している虫に併せた疑似餌を使う。その魚の生態に介入できた感触は、自然に物理的に触れる事ができたことに他ならない。釣り師としてとても共感できる言葉である。

 この『サバイバル登山家』はブレない矛盾の塊である服部氏の胎動編とも言うべき書である。

 鳴動編とも言うべき第二作『狩猟サバイバル』では、とうとう、というか案の定、狩猟の世界に足を踏み入れたサバイバル登山第二ステージとなる。

 帯文にはこう書かれている

 "狩猟登山はじめました"

 冷やし中華のような文句で「服部、調子に乗ってんな」と僕は思った。
 表紙は服部氏が焚火の前で鹿肉を抱え、挑発的な目線が印象的で、かなり調子に乗っている印象である。

 本書では狩猟の世界に踏み入れた服部氏が狩りのノウハウを学び、独り猟銃を背負い山に入り、鹿を撃ち、解体し、食ベ、そして山の頂を目指す。前作『サバイバル登山家』の食への苦労から見ると格段にレベルがアップしている。しかし当初僕はかなりの嫌悪感を持って読んでいた。服部氏が鹿に向って引き金を引く時、僕は「外れろ」と念じ、外れれば安堵し、命中すれば哀しさに包まれた。けれども徐々にこう思ってくる。

「鹿肉食ってみてえ」と。

 読んでいると焼き肉を無性に食べたくなる。もう悔しくてたまらないのだ。美味しそうで。

「自分で食べるものは自分で殺したい」と『サバイバル登山家』で語っていた服部氏が狩猟の世界に到達するのは必然であった。しかし本書では狩猟の経験値を上げるという意図も見え隠れし、いや、隠れてないけど、「私はただ、面白いから狩猟をやっている」という発言まで飛び出す。

「狩りとは、無関心の対極にある愛に似た概念」とも言っている。

 確かに狩りは獲物の行動を獲物の立場で考え予測する。なるほど狩りは人間と動物が共感する究極の形といってもいいのかも知れない。知れないのか?

 閑話休題。
 服部氏はテレビでも見かけるようになった。その中でも『情熱大陸』は衝撃的であった。

 服部氏のサバイバル登山に密着した内容であったが、銃を片手に裸足で鹿を追い、仕留めるや「よーし!」と雄叫びを挙げ、「焼き肉だぁぁぁ!」と叫んでいた。そして物語は急転直下。服部氏は文字通り滝から落ちたのだ。テレビ画面には一言「滑落した」の文字。

 後に『ユリイカ2012年1月増刊号 総特集石川直樹』の石川氏×服部氏の対談で、石川氏から「放送事故ギリギリ」とまで言わしめた衝撃的な番組であった。

 また僕は未見であるが、2014年にはNHKの『地球アドベンチャー ~冒険者たち~』という番組で、隕石が落ちて出来た北極圏の湖へサバイバルしながら赴き、その湖で生息するといわれる新種の岩魚を釣り上げるという密着ドキュメンタリーにも登場している。

 さて、最新作であり僕は最高傑作と思っている覚醒編とも言うべき第三作『ツンドラ・サバイバル』である。

 表紙は右手に釣り竿、左手に魚を持った服部氏である。しかし表情はそれほど明るくない。苦痛を押し殺して無理に笑顔を作っている印象である。

 前半は前述した『情熱大陸』での裏話的な内容で、やはりあの異常なテンションはカメラを向けられていたからであろう。クライミングにも精通した服部氏が滝から「マジヤバイ」と言って滑落したのも、それが原因ではなかろうかと冷静になって振り返る。

 それにしてもだ。
 滑落後に「ここにヘリコプター呼べるかな」と言った23ページ後に「私は遭難救助は登山を汚すと思っている。通常死ぬより汚れるほうがましだというだけだ」と語る服部氏の大いなる矛盾。また「余計な殺生をしないで済んだことに安堵し、銃を依託して撃ったのに外したことが苛立たしい」という矛盾。

 実はこの服部文祥トリロジーで一貫しているブレない矛盾こそが服部氏の魅力なのである。

 だからこそ、NHKの『地球アドベンチャー ~冒険者たち~』の舞台裏を綴った「ツンドラ・サバイバル」でのツンドラの遊牧民ミーシャとの出逢いは、なんちゅうかこう、矛盾を吹っ切った感じがするのだ。

 言葉の通じないミーシャと二人でカリブーを狩る場面は、全二作の矛盾や葛藤、迷い、そして自らの成長の答えをミーシャ(男)を通して服部氏が見つけてしまったようで、感動するとともに一抹の寂しさを感じてしまった。

『サバイバル登山家』で肉屋が牛を殺すのに目を背けていた服部氏が、本書ではトナカイ遊牧民の女性たちがトナカイを解体するのを冷静に分析している。

 また、ほぼ恋心を抱いたと言っていいミーシャ(男)と、狩りを通じて、自らの力で「生きる」ことが言語に換わり共感していく様は三部作のフィナーレとして涙なしにはページをめくれない(フィナーレではないかもしれないけど)。

 現代は生命の危険のない生活から「生きる」実感を忘れ、飢えをのない生活から「食べる」実感を忘れている。僕たちはこの時代にただ生かされているだけなのではないか。

「生きる」と「食べる」は同義である。そんな自明のことが忘れ去られている。
 
 僕は昔、阿蘇山の牧場で放牧中の馬を可愛いと撫でながら、向かいのレストハウスで馬刺がメニューにあることに嫌悪した。茨城の某水族館では出口のお土産コーナーに回転寿しがあることにも嫌悪した。

 だが、服部氏のこの三冊を読むと、その考えが間違いであったことに気付くのだ。

 僕たちはスーパーで買う豚肉を食べているが、生きている豚を見た事がある人間はどれくらいいるだろう。豚に触れた事がある人間はどれだけいるだろう。ましてやそれを自ら殺めて食べる人間はどれほどいるだろう。

 僕は釣った魚をほとんど川に放してしまうが、キャンプする時には食べるために数尾持ち帰ることがある。初めて生きた魚を殺して捌いたときのショックは大きかった。自らの意思をもって殺した魚の全てを無駄にしてはいけないと思った。

 母ちゃんはピーちゃんを食べた時どう思ったのか。
 我が家では母が焼き肉というと決まってジンギスカンである。
 ピーちゃんがよほど美味しかったのだろうか。いまだにそれは聞けていない。

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進駸堂中久喜本店 鈴木毅
進駸堂中久喜本店 鈴木毅
1974年栃木県生まれ。読書は外文、映画は洋画、釣りは洋式毛バリの海外かぶれ。世間が振り向かないものを専門にして生き残りをかけるニッチ至 上主義者。洋式毛バリ釣りの専門誌『月刊FlyFisher』(つり人社)にてなぜか本と映画のコラムを連載してます。