『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』伊藤比呂美

●今回の書評担当者●リブロ池袋本店 幸恵子

 生まれてこのかた、四十を超えました。

 世間さまでは、子どもの頃は見るもの聞くものすべてが新しく...などと申すことがあるようですが、子どもだからすべてが新しく感じるなんてのは、甚だ疑わしいものです。

 人というものは、初めて出会うものに対してある種の刺激を受けると「これはなんなのだ」という興味や感情を抱く生き物のようです。触れ、凝視し、味わい、時には言葉を使うなどをして、なんとか理解しようといたします。

 その時の興奮は、普段、おのれの器の矮小さなんぞ忘れて厚顔無恥な日々を過ごしている年嵩の者のほうが、素直に受け入れる純粋無垢な子どものそれよりも大きいことがあるように思えます。曰く、自分が蓄えてきた微少な知識や言葉では対応出来ないことを受け入れ理解するということには、はかり知れない衝撃があるのではないかと。

 斯く言うわたしも、『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』を読んだ時、「これはなんなのだ」とただただ興奮、驚愕、慌てふためいておりました。

 この本に書かれている言葉は、声、であります。

 帯には長編詩と書いてありますが、読み始めて直ぐには、その初めて出会う文体ゆえにこれは一体なんなのか判然としません。しかし、その語り口から声が聞こえてくると、これまで読んできたものとは一線を画す超絶な詩であるということが、はっきりと身体に染み入って来るのです。

 ここには、ホメロスや中原中也、宮沢賢治といった詩人たち、「説教節」や「梁塵秘抄」、志ん生の「火焔太鼓」などの多くのものから「お借りした声」がともにあります。カリフォルニアに住んでいる語り手の娘たちの話す英語もあります。英語というものは、そのままの語順で日本語に移してみますと、「わたしはおぼえた、すべてのことばを、わたしはなんじゅっかいもくりかえして読んだ、カリフォルニアを出てからこのかた」などとなるようであります。

 これらの声は、重なりあい、響きとリズムをもってこちらを刺激し、揺さぶりをかけてきます。これを詩と呼ばんとしてなんといわんや。

 そして全編に据わっているものは、作者、伊藤比呂美の戦い。両親の介護と、夫と娘、自分の身体とそれら人間の業と戦う姿勢。どうにもならない人生八方ふさがりの土壇場に、なぜか読み手は笑いを覚え、ついにはやがて迎える死と向き合うことになるのです。

  心に大きなトゲがささっておるからな...。
  この苦が。あの苦が。すべて抜けていきますように。
  わしと同じじゃ。苦しかろうな。
  わたしも娘の頃、こうだったからよくわかる。

 若輩ながら。歳を重ねるとわかってくることというものがあるようです。自分の中でなにかが刷新され、いつのまにか刺さっていたとげが抜けて行くような感覚もそのうちのひとつ。それは、思い出というフィルターが操作する「あの頃は良かった」という慰めとは違うもの。

 人の持つ「これはなんなのだ」という探究心と好奇心は、わたしたちを前に進めてくれる。それは、生きていることと死、両方と対峙する態度とも似ているように思われます。

※文章中、花輪和一『刑務所の前 第1集』から声をお借りしました。

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リブロ池袋本店 幸恵子
リブロ池袋本店 幸恵子
大学を卒業してから、大学の研究補助、雑貨販売、珈琲豆焙煎人、演劇関係の事務局アシスタントなど、脈略なく職を転々としていた私ですが、本屋だけは長く続いています。昨年、12年半勤務していた渋谷を離れ、現在は池袋の大型店の人文書担当。普段はぼーっとしていますが、自由であることの不自由さについて考えたりもしています。人生のモットーはいつでもユーモアを忘れずに。文系のハートをもった理系好きです。