第四回 かくと徳島屋旅館

 余市には駅がひとつ。その名も「余市駅」。函館と旭川を結ぶ函館本線の一端を担っている。かつては小樽と積丹を繋ぐ陸路と海路の分岐点として、かなりの賑いだったという。
 名残は、ある。ロータリーの向こうに駅前旅館。門口には正方形の中にト、続けて徳島屋旅館と掲げられている。その名は「かくと徳島屋旅館」。
 聞けば、井伏鱒二が綴った物語のように、余市の駅前旅館もまた、往時は宿泊客に宴会客に冠婚葬祭にと、おおいに繁盛していたそうな。
 大正13年創業。1世紀近くの歴史の中で、時代の波に乗り、のまれ、流されながら、いまは四代目の當宮弘晃さん、益美さん夫婦が切り盛りする。
 余市を往訪すると僕は、必ずと言っていいほど、かくと徳島屋旅館に遭遇する。理由は簡単。車で余市の町を走れば、一度は駅前のロータリーをぐるりと回ることになるからね。そのたびに「ト」&「旅館」の文字が目に入る。どんな宿なんだろう。泊まってみたいな。毎度、そんな思いを抱きながら、ロータリーを抜けていく。
 過日、はしなくも、止宿するチャンスがやってきた。おぉ。これ幸いと、さっそく、予約の電話をかける。


かくと徳島屋旅館(北海道余市町黒川町8-12) 写真・中島博美


「ほんまに泊まらはりますか?」

 電話越しに怪訝な声が聞こえてくる。當宮益美さんだ。数ヶ月前に僕は「かくと徳島屋旅館」でランチを食べて、彼女と顔を合わせていた。少しばかり話もした。だから電話口に益美さんが出たときは正直ほっとした。宿泊の予約をするにも話が早い、そう思ったのにね、どうやら事は簡単に進みそうにないみたい。

「うちのお部屋は間仕切りなんですね」

 益美さんが言う。

「お手洗いは共同になります」

 益美さんが続ける。

「お風呂はひとつで、順番に入ってもらいます」

 益美さんが念を押す。

「ほんまに泊まらはります?」

 怒涛の宿泊予約ネガティブキャンペーンにたじろいでいると、益美さんの優しい声が聞こえてくる。

「気は遣わんといてくださいね。うちは昔ながらの駅前旅館で設えも新しくないものですから」

 わかりました、宿泊の予約をお願いしますと、僕は答える。気を遣ったわけではないんですよ。半分はおもしろそう、半分はなるようになれ。そう思ったんですね。

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 かくて、かくと徳島屋旅館で一宿一飯。予約をしてからというもの、何があっても泣き言だけは言うまいと決めていました。たとえ風呂場で於菊につねられても、ね。

 でもね、前評判に反して快適だったんです。すこぶるとは言わないけれど、昭和風情の畳部屋に落ち着き、広いトイレに開放感を覚え、ひときわ新しい浴場でひと息ついて、玄関口で懐こい仕草を見せる番犬のムンムンに和んだものです。

「ほんまですか。褒めても、これ以上、なにも出ませんよ」

 そう言って、益美さんは笑う。

「うちはインターネットの予約をしてないでしょ。敢えて、なんですよ。いまの宿では当たり前のことがひとつもないものですから、きちんと電話口で説明をしてね、こういう旅館ですけどそれでもよろしいでしょうかと。納得して泊まって欲しいと思ってるんです。決して、脅してるんとちゃいますからね」

 話の最後に益美さんはきっちりオチをつける。だから、いつも笑顔になる。泊まらせたくないのかと思いましたよ。そう僕が伝えると「うちに泊まって余市の印象が悪くなってもいけないでしょ。だからいつもの5割増しくらいで煽った気がします」と、会話の〆はやっぱり笑い声。楽しいなぁ。

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 かくと徳島屋旅館の初代は、名に冠した通り徳島県出身。かくとは屋号である。苗字の當宮に由来する。宿の歴史を訊ねると、當宮弘晃さんがメモを確認しながら教えてくれる。

「間違ってはいけないと、これまでの歩みを書き出してきたんです」

 横で益美さんがうんうん頷いている。あんちょこは彼女がこしらえたらしい。

「ひいじいちゃんが親戚と一緒に徳島から北海道に渡ってきたんです。どうやら余市に来て閃いたらしいんですね。木賃宿をやろうと。当時、積丹へ移動するには汽車で小樽から余市までやって来て、そこから先は船だったそうです。海が荒れれば船は出ませんよね。そうすると余市で足止めを食う。だから宿屋が儲かるはずだと」

 弘晃さんの曾祖父の先見の明には恐れ入るばかり。宿は隆盛を極めた。100年近く続く駅前旅館として、いまも現役である。僕が老舗の力を讃えると、弘晃さんは「いやぁ」と苦笑い。「ここ最近はなんとか営業を続けていると言った方が正確なところです」。益美さんに目をやれば、うんうん頷いている。

「うちの全盛期は昭和40年代から50年代後半です。旅館も盛況、宴会もひっきりなし、町内への仕出しもやる。結婚式を町の農協会館でやっていた時代で、その料理を請け負ったりもしていました。おじいちゃんと父が全体を切り盛りしながら、料理は母と何十人もの従業員で回して、繁忙期は学生のアルバイトをお願いしながら、それでも足りないほどだったんです」

 僕が泊まった2階の9畳の部屋は、間仕切りを取っ払えば最大で45畳の大広間になるという。

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 弘晃さんの子供時代、それは、かくと徳島屋旅館の黄金時代だった。小さいときから「お前は四代目としてここを継ぐんだぞ」と言われ続けて育った。子供の頃は、責任の重みがわかっていなかったけれど、歳を重ねても疑問に思うことはなかったという。弘晃さん曰く「ここを継ぐことはおじいちゃんとの約束」。

「高校を卒業したら和食の勉強をしてこいと。和食だったら京都がいいだろうと。じゃ行ってきますと。そんな感じでした。京都で調理学校に1年通って、その後『たん熊』さんにお世話になって、9年間の修業を終えて帰ってきたんです」

 メモに目を落とすことなく淡々と話しながら、合ってるよね、という風情で弘晃さんは益美さんを見やる。益美さんの口調には関西弁が混じっている。修業中に知り合ったんだろうな。そんなことを思いながら、ふたりの馴れ初めを訊いてみる。

「京都にいたときです。兄弟子の紹介でアパレルで働いていた彼女と知り合って、付き合うようになって。でも僕が余市に帰ったので、それからは遠距離で」

 間があいたところで、益美さんが話を引き取る。「遠距離で付き合っているときに遊びに来たんです、余市に。運悪くずっと雨だったんですよ。海沿いをドライブしたんですけどね、空はどんより、海は暗く沈んだ色。そのすべてが自分の未来と重なって見えちゃって。本当にここに嫁いでいいのか、私。そんなことを考えたら心が乱れました」。益美さんは笑いながら「帰り道、札幌でわんわん泣きました」。弘晃さんも笑いながら「えっ、なんで泣いてるのってびっくりしました。かなりの号泣だったんです」と振り返る。

「もうこれは駄目かなと感じましたね」と話す弘晃さんに、益美さんは「このままフェードアウトやなと思いましたもん」。

「それでも僕は待つしかなかった。余市で彼女を待つしかない。この町から出て行くという選択肢はなかったですからね、僕には」

 四代目の覚悟だなぁ。この涙から数年後、ふたりは結婚するわけですけどね、そのときの再びの騒動(と言っていい話があるのですよ)は、また別の機会にでも。

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 この日、チェックアウトを済ませた僕は、かくと徳島屋旅館で瀟洒なランチをいただきました。素敵な献立をここに書き記しますね。

 柿の白和え、小鯵のなめろう、鰍の丸仕立て、アオリイカと福来魚と南蛮海老のお造り、アオリイカの墨煮、鰊の有馬煮、ふろふき大根、栗ごはん。さらに余市が誇るワイナリー、ドメーヌ・タカヒコにドメーヌ・アツシスズキ、ドメーヌ・モンの3つのドメーヌのフラッグシップワインと一緒に楽しめて5000円ちょっと。お得だなぁ。

 弘晃さんが京都での修業を終え、余市に戻って四半世紀以上。たん熊での経験を活かして順風満帆な四代目人生を送っているんだな。ずらりと並んだ料理に舌鼓を鳴らしながら、そんなことをつらつらと思い浮かべていたんです。でもね、余市に戻ってからの話を訊けば天歩艱難、びっくりですよ。

「28歳のときに帰ってきて、調理場を仕切っていたのは母だったんです。料理に対する考え方がまるで違っていて、こうすればもっと美味しくなるよと言っても、ずっとこれでやってきたんだからこのままでいいと突っぱねられて」

 それまではどちらかと言えば、ぽつりぽつりといった風情だった弘晃さんの口が達者になって、熱を帯びてくる。

「凹んだのは、自分がつくった料理をお客さまにダメ出しされたときですね。茶碗蒸しをお出ししたら味付けがヘンだと言われまして。もっと甘い方がいいよってアドバイスされたり、しょっぱい茶碗蒸しってどういうことよって、全否定されたりもしました」

 当時、余市の一般的な茶碗蒸しはとにかく甘かったという。栗の甘露煮を入れたり、甘露煮の汁を卵液の中に入れたり。僕は訊く。子供の頃は弘晃さんも甘い茶碗蒸し、食べていたんですよね、と。

「昔は美味しいと思って食べていましたね」と笑いがら「京都で食べた茶碗蒸しは全然違っていたんです。繊細で複雑な味わいに驚いて。なんて美味しいんだろうって。余市のみんなにも食べてほしい。そう思って甘くない茶碗蒸しを出したら、誰もが美味しくないって言うんですよ」。ちょっとだけ間があって、弘晃さんがぽつり......あれは苦しかったなぁ。

「自分が美味しいと思う料理をつくることができない。そのことが特にしんどくて。お客さまが喜ぶなら甘い茶碗蒸しをつくればいいんだけど、それもできない。だって美味しくないと思っているのにつくれないですよ。京都で修業したことがここでは役に立たない。帰ってきたのに存在価値がまるでない」

 ここで弘晃さんが沈黙。すかさず、益美さんが助け船を出します。

「町の人の評価に悩むと同時にね、お店の低迷期にも突入するんですよ。苦しさ2倍と言うんですかね」

 助け船というより、泥舟? 益美さんは、まぁちょっと聞いてくださいといった感じで、話を続けます。

「平成に突入すると、まず宴会が減ったんです。バブル景気もあって、町の人は小樽へ繰り出していくでしょ。結婚式もホテルで挙げるようになる。仕出しの注文はゼロ。駅前旅館に泊まる人はほとんどいない。ごくたまに今日は泊まれますかって人が来る。それくらい。予約がない。電話も鳴らない。仕事がない。収入がほとんどない。貯金というか、そんなにはないんですけどね、財産を食いつぶして10年ほどは生活していたんです」

 ついさっき、ご馳走を食べたばかりの身としては俄かに信じられない話です。訝しげな僕の表情を察したのか、益美さんが「話、盛ってませんから。ねぇ」と言って、弘晃さんへと賛同を迫れば「本当にぼんやりしていましたね」。

 その頃に娘が生まれたんです、ちょうどいい時期やったなぁ、子供と一緒に過ごす時間があったことはよかったです、よう昼寝したもんなぁ。ふたりで冗談とも本気ともつかないことを言い合いながら、その表情は楽しかった日々に思いを馳せるよう。

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「ぼんやり時代は子供が小学校を卒業するくらいまでですかね。子供たちがだんだんと親を必要としなくなって、親離れというよりも僕らが子離れをしなければいけない時期がきて、このままではいけないという思いが芽生えてきたんですね」

 もがきたいんだけど、もがき方がわからなかったーーそんなふたりが話し合って出した結論が「ランチ」。

「僕は食べ物をメインでいきたいんだけど、どこかで旅館がメインだと思っているからうまくいかないんじゃないかと。だいぶのんびりしたし、自分の中でもう一度、料理を頑張ってみようかなと。どうせ泊まり客も来ないからと、思い切って昼間の営業を始めてみたんです」

 なんと。僕が当たり前のように食べた昼食は、雌伏していたふたりの想いが結実したものだったとは。

「ランチを始めたら、少しずつなんですけど手ごたえがあったんです。甘くない茶碗蒸しを出しても受け入れてもらえるし、帰り際に美味しかったと言われることも増えていくんですよ。あれっと思って。どうやら、僕らがのんびりしている間に余市では世代が入れ替わって、町の人たちの味覚が変わってきたみたいなんですね。もしかして、この味で続けていっていいのかもと」

 そんな思いを抱き始めた頃、東京からの男性客がやって来た。目的はニッカウヰスキー。たまたま、かくと徳島屋旅館に立ち寄ったとか。その彼が料理をえらく褒めてくれた。ちゃんとつくっている。そのことをなによりも称賛してくれた。お世辞かなと思いながらも会話を交わしてみると、彼がかなりの食通であることを知る。東京の有名店にもあちこち通っているし、偶然にも京都の兄弟子の店の客でもあった。

「縁ってあるもんだと。あぁ、間違ってなかったんだ。そう思えた瞬間でしたね。それから毎年、毎年、何度も来ていただいて、その方にどう感じてもらえるかが自分にとっての腕試しにもなってましたね」

 益美さんが言う。「ランチを始めるようになって、それなりに忙しくなったでしょ。娘たちが笑い話でよう言ってましたよ。最近、うちの両親おかしいぞと。学校から帰ってくるといっつも昼寝してたのが、えらい働くようになったと。人間、変われば変わるもんだって」。

 弘晃さんが言う。「ランチも軌道に乗るまで5年はかかってますから、昼寝の時代を足すと15年ですよ。いま思えば、よくもあんなに落ち着いていたもんだとびっくりします。そもそも、よくもったなと」。

 ランチに本腰を入れ始めたふたりは、平成の終わりには近所の若い人たちの手を借りながら食事処を新しくつくり、水回りもちょっとだけ改装した。僕が入った浴場が新しかったのは、そういうことだったのかぁ。

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 ランチが支持を受けた理由はなんだったんだろう? 訊ねると、益美さんは「特別なことをしたわけじゃないんです」と言う。ランチに対する思いはひとつ 、あった。ひとつだけあった、かもしれない。「気軽に、お得に、旬の食材を楽しんでもらいたい」。シンプルだけど、人柄が感じられるなぁと、僕は思う。

 おもしろいと思ったのは、ランチは予約制で内容と金額は相談をして決めるというスタイル。「時候膳」と銘打って、1000円から10000円を目安に旬の食材をふんだんに使いながら、弘晃さんが自在に献立を用意していくのだという。腑に落ちました。ランチは料理人=弘晃さんの手腕が存分に発揮されたからこその人気なんだと。

 ふたりの話を聞いて思い出すのは、三年寝太郎。ごろごろした後に大事を成す、あの民話。弘晃さんと益美さんは、三年どころか十年寝太郎&寝姫だけれど。

「ランチを始めたことで、少しずつ時計が動き始めた感じですね。うちで使う魚は付き合いもあって、ずっと余市じゃない魚屋さんから仕入れていたんですよね。でも、すぐ近くに海もあって、地元にも魚屋もあるのにおかしいよなって。だったら余市の魚を使うことにしようと。地元の農家さんにも知り合いができて、余市でも野菜をいっぱいつくっていることを知ると、それならば地元の野菜を使おうと。そうこうすると余市での付き合いが広がって、なんだか楽しくなってくるんですよね。そうは言ってもいい歳なんです。50歳にもなって、いろんなことを考えるようになるんですから、遅いと言えば遅いんですけど、そんなこんなで、いまに至る、と」

 弘晃さんの喋りに益美さんから「はしょり過ぎ」と突っ込みが入る。「そう? かっこつけすぎかな?」と、弘晃さんが小声で返す。益美さんが「かっこよくはない」と笑う。

「最近、余市という町が変わりつつあるなって思いますね。若い人が新しい店を始めたりして。そんな中で僕らは置いていかれてる感もあります。でも、おっちゃんとおばちゃんが前に出ていってもよくないよなという気持ちもある。手伝えることがあれば、なんでもやりますよというスタンスなんですけど、自分からは動かないんですよ。声をかけらないと重い尻が持ち上がらない面倒な性格なんですよね」

 横で聞いていた益美さんが「せやなぁ。もうそれはしゃあないなぁ」。

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 目覚めたふたりは、これからのかくと徳島屋旅館をどう考えているのだろう? 弘晃さんに問いかける。

「僕の代で終わりです」

すかさず、益美さんが口を開く。

「言い切ったら、あかんて」

 でも、弘晃さんは譲らない。

「娘3人ですからね。継ぎたいって言っても、いやいや、やめた方がいいんじゃないと言うと思います」

益美さんも諦めない。

「ほんまに? その話、聞いてないわ」

 弘晃さんがすぐに返す。

「それでも継ぎたいって言ったときは本気で応援しますけどね」

 益美さんはその言葉を聞いて満足そうな表情を浮かべて、思いを語る。

「私は器や設えに気を配っていきたいと思っています。雑誌とかにも出てないのに、なんかいいな。そんなふうにいけたらいいなって」

 今度は弘晃さんが、なにかを思い出したように話し始める。

「和食とワインがこれからの自分のテーマですね。余市のワインに合った和食を考えたいと思っています。産みの苦しみはあるけど、それが料理をやっている楽しみでもありますね」

 益美さんがうんうん頷いている。

「やっぱりお客さまに喜んでほしいんですよね、僕は。でも単純なのか、お客さまに褒められると、ありがとうございます、代金は結構ってなるんですよ」

 そう言って笑う弘晃さんに、益美さんが突っ込みを入れる。

「なにを言うてんの。お代はきっちりもらわんと。頼むわ」

 笑いが絶えないふたりの話をいつまでも聞いていたいな。そんなことを思いながら、そろそろ、かくと徳島屋旅館から出立つとします。

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