第一回 「街道病」にかかる

  • 新・東海道五十三次 (中公文庫 A 11-2)
  • 『新・東海道五十三次 (中公文庫 A 11-2)』
    武田 泰淳
    中央公論新社
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  • 東海道五十三次―百二十五里・十三日の道中 (中公新書 53)
  • 『東海道五十三次―百二十五里・十三日の道中 (中公新書 53)』
    岸井 良衛
    中央公論新社
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  • 東海道でしょう! (幻冬舎文庫)
  • 『東海道でしょう! (幻冬舎文庫)』
    杉江 松恋,藤田 香織
    幻冬舎
    782円(税込)
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 深夜、日本地図を見ながら、二泊三日くらいの旅行の計画を立てる。ウイスキーの水割を飲みながら、街道沿いの文学館や郷土資料館を探し、電車の乗り継ぎ時間などを調べているうちに、気がつくと明け方になっている。
 頭の中が街道のことでいっぱいだ。最近、新刊書店や古本屋に行っても「道」「路」「宿場」「宿駅」といった言葉にすぐ反応してしまう。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 一九八九年の春、十九歳のときにわたしは三重県鈴鹿市――東海道でいうと庄野宿の近くの町から「上京」した。
 鈴鹿市は鈴鹿サーキットや自動車工場がたくさんある車社会の町である。車の免許を持っていないわたしには住みづらい町だった。
 二年前、郷里の父が息を引き取った。七十四歳だった。一九四一年台湾生まれ、戦後、鹿児島県大口市(現・伊佐市)に育ち、十八歳で東京に出てきて、川崎、浜松、鈴鹿と東海道に沿って工場労働者として働いていた。温和で無口。怒っている姿を見たことがない。父は本と漫画と芋焼酎が好きだった。
 父が生きていたころ、帰省するのは年に一回あるかどうか、滞在も一日か二日だった。
 三重を通りすぎて、京都に行くことのほうが多かった。
 自分には郷土愛みたいなものはないとおもっていた。

 父と最後にどんな会話を交したかおぼえていない。父が亡くなって、家の電気代やらガス代やらを引き落としにしていた銀行の口座が凍結されてしまい、その手続きのため、ひと月で三回くらい東京と三重を行き来した。
 しばらくして今度は病気らしい病気をしたことのなかった母が入院した。今は元気になったが、病院に運ばれたときは意識不明だった。
 朝早く病院から電話があると、金券ショップで買った新幹線の回数券を財布に入れ、高円寺駅の改札をくぐり、JR中央線で東京駅へ。東京駅から東海道新幹線に乗って名古屋駅――それから近鉄に乗り換え、郷里の町へ。何だかんだと母が入院していた病院まで片道四時間ほどかかる。
 毎回駅まで母の弟のトシおじさんが車で迎えに来てくれた。子どものころ、よく遊んでもらった。陽気で悪戯好きで釣りがうまいおじさんだ。すごく世話になった。
 へろへろの状態で担当医から心臓のレントゲン写真を見せられ、よくわからない説明をされ、署名してハンコを押す。
 交通費もバカにならない、というか、こんな日々が続いたら毎月赤字だ。つらいぜ、遠距離介護。いや、介護はしていないが。
 一年足らずのあいだに父の死と母の入院が重なり、しだいに新幹線に乗ることが苦痛になった。東京では入手しにくい調味料(コーミソース)や田舎あられ(鈴鹿あられ)を買うとか寿がきやのラーメンを食うとか以外の楽しみがないとやりきれない。

 そんなこんなで帰省のさい、わたしは東海道に関する本を持っていくようになった。
 何でもいいから、東京と三重の往復を楽しいものにしたかった。
 地元に友人もいない。父とよく行った「ドライバー」という喫茶店もすでにない。いまだに夢に出てくるくらいチャーハンと卵サンドもうまかった。行きつけのうどん屋の味も変わってしまった。
 郷里と自分をつなぎとめるものが何かほしい。
 それが街道だった。

 武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)を読んだのもそのころだ。
 ちょうど自分が生まれるすこし前、一九六九年に東名高速が全線開通するすこし前の東海道の旅――泰淳は妻の武田百合子が運転する車で東海道をあちこちにそれ、思い出の場所に寄道しながら行き当たりばったりに移動する。読み返すたびに発見がある。すごくおもしろい。ここ数年、燻っていた「旅欲」が再燃した。
 武田泰淳と武田百合子は、わたしが生まれるすこし前に鈴鹿サーキットにも来ている。惜しい、ニアミスだ。
『新・東海道五十三次』の中で紹介されている岸井良衞著『東海道五十三次 百二十五里・十三日の道中』(中公新書)も読んだ。勉強になった。
 東海道の本を読んでいるうちに、いかに自分は東京と三重のあいだを通りすぎてきたかということを痛感した。
 帰省のさい、ずっと名古屋から近鉄を利用していたが、電車の本数は少ないとはいえ、JR関西本線や伊勢鉄道もある。四日市駅からあすなろう鉄道に乗り、終点の内部(うつべ)駅からバスで帰るルートもある。あすなろう鉄道の追分駅のすぐ近くに日永の追分(東海道と伊勢街道の分岐点)がある。東海道日永郷土資料館もあるのか。今度行ってみよう。

 今年の夏、何年かぶりに関西本線の加佐登駅でおりて庄野宿を歩いた。わたしが郷里にいたころにはなかった庄野宿資料館ができている。一九九八年四月開設。「庄野ふれあい探訪マップ」「歩こう! すずかの東海道」というマップをもらった。
 東海道の本を読んでいても、歌川広重の「庄野の白雨」のことは書いてあるが、庄野宿に紙数が割かれていることはあまりない。というか、ほとんどない。「庄野の白雨」は評価は高いが、地元の人間からすれば「こんな坂ないよ、庄野に」という絵でもある。
 小学生のころ、わたしは父と庄野宿のすぐそばの鈴鹿川でよく釣りをしていた。
 だからはじめて広重の「庄野の白雨」を見たときは「これ、亀山じゃないか?」とおもった。
 その後、庄野宿について書かれている本を何十冊と読んだが、ほとんど著者が「庄野の白雨」と現在の風景とのギャップに困惑している。中には「見どころは何もない」と書いている人もいた。庄野宿界隈は完全に平地だけど、「白雨」はどう見ても山道だからね。広重の絵でいえば、隷書東海道の「庄野」の絵(平坦な道で焚火している)がもっとも近い気がする。
 杉江松恋、藤田香織著『東海道でしょう!』(幻冬舎文庫)で杉江さんが「東海道を歩いた中でもっとも美しいと思った川は、三重県に入ってからたびたびほとりを歩いてきた鈴鹿川かもしれない」という一文を読んだときは、我がことのように嬉しかった。

 それから岸井良衞の『東海道五十三次』を読み返していたら次のような記述があった。

《広重の日記には、「夕立も一過してければ涼しきうちに、ここを去りて庄野に向う。(中略)下り日記で亀山から庄野への間で、この日記の絵は雨中の亀山城が画かれているが、保永堂板のヒントはこの時のものであろう》

 街道の専門家にも亀山説(亀山とは断定していないが)を唱えている人がいた。
 生まれ育った町ですらわからないことがいっぱいある。
 鈴鹿と箱根が東海道の難所であることは知っていたが、小夜の中山(静岡県掛川市)を含めて「東海道の三大難所」と呼ばれていることさえ知らなかった。
 宮(愛知県)から桑名(三重県)までは船で渡っていたことも知らなかった。中世は熱田神宮のそばに港があった。
 さらに江戸時代の人はお伊勢参り(お蔭参り)のさい、行きは東海道、帰りは中山道を通ることもあったことを知った(信州の善光寺に寄ったみたいですよ)。
 別に、新幹線に乗らず、JR中央線(中央本線)で寄り道しながら帰ったら楽しそうだ。同じルートで行き来する必要はない。

 長年、わたしは愛知県の渥美半島の伊良湖岬から三重県の鳥羽を船で渡りたいと考えていた。今年の夏、はじめて伊勢湾フェリーで鳥羽から伊良湖に渡った。楽しかった。快適だった。
 五十歳を前にして、これまでやろうとおもいつつ、やってこなかったこと――自分の宿題みたいなものをすこしずつ片づけたくなった。
 人生の峠はこえた。でもまだ街道筋の峠をこえるだけの体力は残っているはずだ。

 宿場町を訪れる。遠いとおもっていた町が意外と近いとおもうことがある。その逆もある。何も考えずに歩いてきた道に名前があり、その先には知らない世界がひろがっている。
 頭の中の地図がどんどん変わっていく。それがすごく気持がいい。
 東京と三重の行き来が楽しくなった。郷里がおもしろくなってきた。三重には東海道以外にも「いい街道」がたくさんある。
「街道病」にかかって以来、これまで小説や漫画を読んでいても、あまり気にしてこなかった地名が目に止まるようになった。城の場所もそうだ(街道の周辺は城や古墳が多いのです)。
 しだいにこの町とこの町は歩くと三日くらいかかるな――といった(電車や車がなかった時代の)地理感覚のようなものが身についてくる。
 自分が歩いてきた場所、読んできた本がいろいろな街道によってつながっている。散らばっていた点が線になる。
 読んで知る。知って歩く。歩いていると知っているつもりだったことがいい意味で裏切られる。街道はどんどん更新されている。消えかかっている街道もある。
 街道には新道と旧道がある。さらに脇街道と呼ばれる道もある。「塩の道」「絹の道」「銀の道」......きっと「文学の道」もあるだろう。
 どうせ街道を歩くなら、気になっていた文学館やこれまで読んできた様々な文学作品の舞台になった土地にも寄りたい。言い忘れていたが、わたしは四半世紀以上にわたり文学館のパンフレット(図録)を蒐集している。といっても、大半は古本屋や古書会館で買ったものだ。しょっちゅう文学館に行っているわけではない。行こうとおもいながら、行かなかった文学展もたくさんある。

 というわけで、街道散策+文学館探訪――「街道文学館」をはじめます。たぶん月二回くらいの連載になる予定です。