北澤書店 3/3

1月29日(金曜)

 昨日と違ってよく晴れていて、靖国通りを挟んだ反対側のビルは陽射しを浴びて白く輝いている。こうして見ると、お店が北向きだということがよくわかる。靖国通り沿いには古本屋がずらりと軒を連ねているけれど、そのほとんどが南側に集中している。つまり入り口は北に向いている。

「北向きだから直射日光を浴びなくて、本が傷まないと言われてますけど、でもねえ、やっぱり痛みますよ」と一郎さんは言う。「一階で新刊を扱っていたときは、表紙にパラフィン紙をかけてたんですよ。脂で本が汚れるのを嫌って、古本だけじゃなくて、新刊にもパラフィン紙をかけていた。そうするとね、反射した光が入ってくるのもあると思うんだけど、玄関に近いほうに長らく並んでいた本は、パラフィン紙が茶色に焼けちゃうんですよ。パラフィン紙は薄くて白っぽいから、変色するとすぐわかるんですよね。だからやっぱり、北向きであっても多少は焼けるんだなということは認識しました」

 1階の立て看板は、一郎さんがお店に到着したときにはもう出してあった。里佳さんは毎週金曜日、東京古書会館で開催される明治古典会という交換会で経営員の仕事をしている。その出勤前に店に立ち寄り、立て看板だけ出しておいてくれるのだと、一郎さんが教えてくれた。

 店内にあかりを灯すと、まずは本棚を整え、ハンディモップでホコリを取る。開店準備が整うと、入り口の札を「OPEN」にひっくり返す。日曜日は定休日だから、今月の営業日は残り2日だ。

「今年はね、12日から営業を始めたんです」。年末年始の休業期間をどうしようかと悩んでいた頃に、12月28日から1月11日までGoTo トラベルキャンペーンが中止されると発表があった。例年であれば6日には営業を始めるところだけれど、すぐには人の動きが戻らないだろうと、今年は1月12日から営業を始めたのだという。

「今月は実質3週間の営業ですし、コロナで大変な状況になるだろうと思っていたので、そんなに欲張った目標は立ててなかったんです。蓋を開けてみると、最初の2週間は意外と成績が良くて。今週も調子がよければ昨年度よりも良い成績になって、弾みがつくんじゃないかと思っていたら、今週になって売り上げが下がったんですよ。給料日のあともさっぱりだった。やっぱり、世相が出てますよね。給料が出たからといって、それがすぐにお小遣いにまわるんじゃなくて、生活費にとっておかなきゃいけないんでしょう」

 一郎さんが期待を寄せていたのは公費での注文だ。大学などの研究機関からの注文は、先に本を納品し、代金は後日支払われる。年度末に間に合うようにと注文が入るので、1月中旬から2月中旬にピークを迎える。昔に比べると減少傾向にあったけれど、今年は特に落ち込みが激しく、ほとんど注文が入っていないという。

「昔はね、こちらから公費の注文を引き出すために、在庫目録を作ってたんです。新刊の目録も入れると、年間20点近く出してるときもありました。新刊のほうはニューズレターのような形で、10ページぐらいのカタログを毎月出しているときもあったし、古書のほうはある程度の品物を掲載して、大学や短大の研究室や、個人のお客様に3000件ぐらい送ってました。目録を出してから1ヶ月ぐらいのあいだはよく売れたし、あとからまとめて注文をくれる学校もあったから、いつでも注文がくる可能性があったわけです。でも、売り上げが落ち込んでくると、経費に合わなくなってくる。それに、目録を作るのには労力もかかるから、家内とふたりではとてもできないんです。しばらく空白期間があって、最後に打ち止めというつもりで、2010年頃に出したのが最後の目録です」

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 開店から1時間が経過したところで、「日本の古本屋」に出品していた本に注文が入る。ウィリアム・モリスの初版本だ。

「もしかしたら、ないかもしれないね」と惠子さんが言う。

「俺もそう思ったんだ。こっちに入ってるってことはないかな?」一郎さんは鍵のかかった書棚を探す。

「だって、5000円だよ?」

「そうなんだけど、念のために見てみようと思ってね」

 2018年の秋に店内を大幅にリニューアルしたタイミングで、長年抱えてきた在庫を大幅に整理した。手放すことに決めた本のデータは、1点ずつ削除したものの、誤って「在庫あり」のままになってしまっているものがあるのだという。

 はたして本は見つかった。一郎さんの読み通り、貴重な本を並べた鍵つきの書棚に入り込んでいた。奥付を確認すると、「25000円」と書かれた値段が二重線で消され、「5000円」と書き換えられている。本が見つかってよかった。そうつぶやきながら、一郎さんは発送作業に取り掛かる。店内を回遊していたお客さんが去ってゆくと、惠子さんは本棚を整えにいく。

「ごくたまにですけど、本を雑に扱う人もいるんですよね」と惠子さん。

「中には本を壊して、何も言わないでそのまま帰る人もいますよ」と一郎さんが教えてくれる。そんなお客さんがいるのかと、ちょっと信じられないような気持ちになるけれど、本に対する感覚は時代とともに変わってきたのだろう。かつて舟橋聖一は、第50回芥川賞の選評にこう書き記していたという。

  今日、芥川賞選考に当り、「巣を出る」という作品を読むうち、作中の「私」なる主人公が、女の部屋から押収してきた堀辰雄氏の文庫本を、便所の中で半頁ほど読んでから、後架へ叩きこんでしまったとある箇所に到り、思わずも憤怒をおぼえ、その後章を読むに耐えず、さりとてほかの仕事も手につかぬまま、一時間ばかりをすごした。


 この選評の中で、舟橋聖一はある「昔話」を綴っている。泉鏡花の家を訪ねた佐藤春夫が、誕生したばかりの長男の名を尋ねられたとき、座布団の上に指で「放哉」と文字を書いてみせたところ、「鏡花先生は色をなし、かりそめにも、人のお臀をのせる座布団に、字を書いて示すのは、文字を粗末にすることです」と叱責されたという。泉鏡花や舟橋聖一の、文字や書物に対する迫力をまえにすると、自分はずいぶん粗末に扱ってしまっているように感じてしまう。

「私はまわりに古本屋がない環境で育ったので、古本というものに馴染みがない人の気持ちもわかるんですけど、『こんなに古いものが、高価であるはずがない』と思っている人もいると思うんです」。棚を整えながら、惠子さんは語る。宮崎県に生まれ育った惠子さんは、高校卒業後に上京し、日本女子大の英文科に進んだ。「北澤書店」を知ったのは、一郎さんと出会ってからだ。

「古本屋という職業は生まれ育ったところには身近にはなかったですし、それも洋書専門というのはすごく魅力的だなと思ったんですよね」。惠子さんはそう振り返る。ふたりは36年前に結婚。当時は社員もたくさん働いており、仕事を手伝って欲しいと頼まれることもなかった。だが、2005年にお店を縮小し、夫婦二人で再出発するときには、ほとんど悩まず「自分も店を手伝おう」と決断したのだという。

「その時期はもう、とにかく主人が疲れちゃってたので、すぐに決断してますね。社員に辞めてもらうのも大変だったと思いますし、彼らが退職したあとの身の振り方まで心配したんですけど、結局非難されるわけですよ。疲れ切ってる姿は可哀想だったし、借金は残ってしまっているわけだから、『一生懸命手伝うから、もう一回やり直そうよ』っていうことで、とにかく何かしなきゃって気持ちで始めたような気がしますね」

 惠子さんは経理と雑用を担当することに決め、退職する社員から経理の基礎を大急ぎで教わった。これまで一度も伝票というものを書いたこともなかったので、わからないことだらけだったけれど、どうにか2ヶ月のあいだに最低限の知識は学んだ。働き始めてみると、装飾がきれいな本が――しかし中身を読んでくれる人は現れないであろう本が――目に留まった。その何とも言えない本の魅力を誰かに知って欲しくて、バスケットを買ってきて並べてみたところ、すぐに買い手がついた。同じようなことが何度か続いたある日、惠子さんが「失礼ですけど、何にお使いですか?」と尋ねてみると、「本当なら内容で買うべきなんでしょうけど、ごめんなさい、飾りなんです」とお客さんが申し訳なさそうに答えれてくれた。その言葉で、ディスプレイ用に洋書の需要があることを知った。

「だから、ディスプレイというのは、お客様に教えられて少しずつ形になってきた感じなんです」と惠子さんは言う。一郎さんが「これはもう、売れないと思う」と言った本でも、装飾がきれいなものを集めて並べておけば売れてゆく。本が売れるのはやはり楽しかった。

 本のことをもっと深く知りたいと、洋書会がある火曜日だけは人に店番をお願いして、夫婦二人で市場に出かけるようになった。あるとき、英語の雑本が1500冊近く、まとめて出品された。一郎さんの目から見ると、おそらく買ってくれるお客さんが見つからない本で、入札する業者は他にいなかった。ただ、惠子さんの目には、装丁がきれいで可愛らしい本に見えた。安く買えるのであればと入札すると、すんなり落札できた。何ヶ月かかけて売れたらいいなと淡い期待を抱きながら、仕入れてきた本を廊下にずらりと並べると、1ヶ月ほどですべて売れてしまった。

「その頃はディスプレイ向けに洋書を買っていく業者は他にいなかったので、出品されても誰も札を入れなければ、廃棄されてしまうんです。内容からすれば、もう二束三文になってしまったものなんでしょうけど、私が『欲しい!』って手を挙げると、装丁がきれいな本が安い値段で山ほど買える。そのうちに、『ああよかった、北澤さんが買いにきてくれた』と喜ばれるようになって、廃棄されるはずだった本が別の道で活かせるし、きれいな本を触っていられるし、売り上げが下がっていたお店の役に立つこともできる。それが楽しかったんだと思います」

 夫と一緒に働くにつれ、本に対する思いも膨らんでゆく。自分では中身を味わうことができなくても、誰かが大切にしてきたものを安値で売るのはためらわれ、ストックは増える一方だった。どうやって販売したものかと途方に暮れていたところに、「お母さんが大事にしてきたもの、きっと売れるよ」と声をかけてくれたのが里佳さんだった。

「娘にそう言われたときは、とても嬉しかったです。あの子は読書家ですし、装丁のことも興味がありますし、本関係の仕事は向いてると思うんですね。もともと本に愛情をもって接することができる子です。それに、私は発色の良いものが好きで、そういう色のものを集めがちなんですけど、彼女はどんな色もセンス良く、まんべんなくまとめてくれる。若いセンスでやっていると、お客様も少しずつ若い人が増えていて。だから、娘が店を手伝ってくれるようになって、すごく助かってますね」

 センスだけじゃなくて、働き者だってところも私と違うところですね。惠子さんはそう笑う。

「私はすぐ『疲れた』って言っちゃうんですけど、彼女は何も言わず、コツコツとよく働くんです。だから、一緒に仕事ができているのはすごく嬉しいんですけど、このお店だけに縛られず、娘には娘の道があるといいなと思うんです。趣味でやっているわけではないですし、維持するためにはそれなりに経費もかかる。それに、ディスプレイの仕事は在庫をたくさん抱えておく必要があるんですね。常に600キロぐらいの量を仕入れてきて、それを自分で運ぶわけです。私がここで働き始めたときはまだ45歳だったので、『私がやるわ!』と力任せにやってましたけど、年を取ってくると、こうやって本を集めることも難しくなってくる。ほんとにねえ、本って重いんですよね」

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「北澤書店」は、来年で創業120年を迎える。現在の「北澤書店」は、英文学の洋書と、ディスプレイ向けの洋書、ふたつの売り上げで支えられている。「今はその二本足で立っているので、英文学だけでも立たないと思うし、ディスプレイだけでも立たないと思う」。経理を担当する惠子さんは言う。夫が引き継いで営んできたお店には、いつまでもあり続けて欲しいと思う一方で、自分たちも年齢を重ね、本が売れなくなるなかで、今後について葛藤を重ねる日々が続いている。

 最近はディスプレイの話題が目立つことからか、「昔は立派な本を並べていた」と言われることもあるそうだ。「主人の眼でセレクトされた学術書も以前と変わらず豊富にそろっているんですよ。ご興味のある方はぜひ足を運んでいただきたいです」と惠子さんは言う。

 電話の着信音が響く。「はい、北澤書店でございます」と、一郎さんが電話に応じる。どうやら買取の依頼の電話のようだ。

「内容的にはどういったものでしょう?――演劇の研究書ですか。英語で書かれたもので、ハードカバー。そうですねえ、以前は専門の一つとして扱っていたんですけども、需要が激減しまして、ちょっと難しいかもしれませんね。演劇の研究書とおっしゃいましたが、いつの時代に書かれたものでしょう?――ああ、エリザベス朝時代。その時代のものですと、昔は高かったですよね。ところが、そういったものが今は全然動かなくなって、私どもとしてもこれ以上コレクションを増やすわけにはいかないんです」

 この3日間、同じように買取をお願いできないかという電話は何度かかかってきた。今回のお客さんは、今のビルが建つ前から「北澤書店」に通ってくれていた方だとわかり、話が弾んだ。「うちの店は、昔はずいぶん値段が高かったでしょう」と一郎さんが言うと、「ずいぶん儲けさせたと思うよ」とお客さんも笑っていたという。

「最近はね、『よく北澤書店で本を買いました』というお客様から、本を買い取ってもらえないかと連絡をいただくことが多いんです」。電話を切ったあと、一郎さんが教えてくれる。中には「北澤書店に育てていただきました」と言って連絡をくれる大学の先生もいる。

「ぼくが持っている知識というのはね、ほとんどお客様からの受け売りなんです。お客様から自分が知らないような話を聞くと、ああ、そうだったのかと覚えておいて、別のお客様が見えたときに『実はこうらしいですね』なんて話すと、喜んでもらえる。昔は英文学の本もよく売れたから、そういったコミュニケーションが日常的にあって、古本屋の独自の知識になる。それは学術的な知識じゃなくて、はなはだいい加減なものなんだけど、一種の街の知識ですね。お客様のほうでも、それを面白がって聞いてくれる時代があったんだ。それを文字に書いてみろと言われると、レポート用紙一枚にも満たないんだけど、その場の会話としてはいくらでも言葉が出てくるんですよね」

「北澤書店」を継いだとき、一郎さんは1日に1冊ずつ本をおぼえようと決めた。著者はどんな人で、どんな内容で、相場はどれぐらいか。1日1冊おぼえていけば、年間300日ほどの営業日で、300冊おぼえる計算になる。そのうち200冊のことは忘れてしまっても、100冊の記憶は残る。そうすると、次の年には1日5冊ずつおぼえられるようになってゆく。そうして知識を積み重ねていくうちに、既刊本に関しては、タイトルを聞けば書影が浮かぶようになったのだという。

「そうやって自分なりに拙い努力を続けられたのは、うちで本を買ってくださるお客様がいたからなんです。だけど、今はもう、構造が変わってしまったんだと思わざるをえない。失礼なたとえになってしまうかもしれないけど、今は魚のいない釣り堀に、一生懸命釣り糸を垂らしているようなものだと思うんです。自分が培ってきた知恵をフルに稼働して全身全霊でやっていても、そこに魚はいないんだから、滑稽の図だよね」

「構造が変わったとしか思えない」。一郎さんの言葉は、単に店頭で洋書が売れなくなったことだけを意味するものではないのだろう。見知らぬものに出会い、「街の知恵」を通じて少しずつそれになじんでゆく。そんな経験自体が世の中から消え去りつつあるように感じる。店頭での売れ行きが鈍くなり、インターネットで販売が増えているのもその一例だろう。

 ぼくが生まれ育った小さな町にも、かつては小さな個人商店があり、魚は魚屋で、酒は酒屋で買っていた。でも、昭和57年生まれのぼくが物心ついたときにはもう、スーパーマーケットで買い物をする時代になっていた。八百屋で買い物をするには言葉を交わす必要があるけれど、その「手間」を省けるというところが、スーパーマーケットの新しさだったのだろう。

「これから50年経つと、またがらっと変わっている可能性はあるよね」と一郎さんが言う。「この数年間は特にそういうことを感じているんだけど、その上で生きていくにはどうするかってことを考えていて。それを考えるのは苦しいことじゃなくて、楽しいことでもある。これから世の中がまるで変わって、『ご破算で願いましては』と始まる可能性もあるんじゃないか。そのときに自分はどういうふうになっているのか、それを見届けたいっていう気持ちがある。そういう心づもりで、自分の生業である古本屋業を続けていこうと思っているんです」

 街ががらりと変わってしまうのだとして、それを見届けたいという気持ちはどこから湧いてくるのだろう。馴染みのある風景が変わってしまうとき、「それを直視するのは忍びない」と思う人もきっといるはずだ。でも、一郎さんはそれを見届けたいと語っていたし、ぼくもこの目で見届けたいと思う。

「人間には性格や好みというものがあって、そういったもののひとつかもしれないんだけど、歴史というものに感慨を持って学んでいくうちに、過去に対する興味が、今度はこれから先々のことに対する興味を含んでくるようになってくるんだね。過去の歴史として『こんな出来事があった』と書かれているけれど、実際にその場にいた人はどんなふうに感じたんだろうと思うわけ。後の時代から振り返って、大変だったねとか気の毒だったねと思いながら読んでるけど、これからだって大変なことは起こりうるわけだよね。もしかしたら、これから生まれてくる人たちが、今の状況を振り返って『あの時代は大変だったんだね』と思うかもしれない。『あの時代の、特に北澤一郎って人は悲劇の人だね』って――これは仮の話ですよ、あくまで仮の話ではあるんだけど、自分が体験してみたいという気持ちがある」

 一郎さんがそんなふうに考えるようになったのは、ここ最近のことだという。

「昔はね、先のことを考えるのが嫌だったんだ。もしも店の景気が悪くなったとすると、大変な思いをしながら潰さないように努力しなきゃいけないわけですよね。そういうみじめな思いはしたくないという気持ちのほうが圧倒的に強かった。でも、だんだん考え方が変わってきてね、もしも店が潰れるようなことがあるんだったら、自分が社長として決断したいと思うようになったんです。どんなに口汚く罵られようとも、それは自分の責任なんでね、店とともに消えていくというのであれば納得できる。そういう心情になったんです」

 あくまで仮の話で、今の段階で店を閉めようと考えているわけではまったくないんですよ?――そう笑いながら、一郎さんは話を続ける。

「昔はね、店を閉めるのは格好悪いことだと思ってたんです。どんなに貧乏をしたって、店だけは張っておくのが俺のプライドだと、そういう考えを持っていたんです。それが今、自分のプライドというのはそういうものではないと気づきつつある。もしも店を閉めるときが来るのであれば、それは自分で閉めようと、そういうふうに思っています。閉めざるをえなくて閉めるのか、まだ閉めなくてもいいんじゃないかという余地を残して閉めるのか。そのへんのところはわからないけど、閉めるのであれば自分が決めて、自分でやめる。さっきも言ったように、現時点ではまだ店を閉めるつもりはないし、家内も娘もいるからひとりだけでは決められないんだけど、他人の力でやめさせられるってことはしないつもりだっていうことです。もしも閉店ということになればね、言われるに決まってるんですよ。『120年続いた店を、お前が潰すのか』って。だけどね、これまで携わってくれたみなさんの思いを背負った上で、俺と家内と娘が納得いく道を進みたいと思っているんです」

 どこからこんな話になったんだろう。一郎さんは笑いながら、お店の業務に戻ってゆく。せっかくだから洋書を買おうと決めて、棚をじっくり眺める。文学の棚には、箱入りの本がずらりと並んでいて、その中にナサニエル・ウェストの『ミス・ロンリーハーツ』があった。それはファースト・プリントをリプリントしたものだと、一郎さんが教えてくれる。この小説のことを、恩師が「すべてのアメリカ小説の中で、私が一番好きな作品」と書いていたことを思い出し、買い求めることに決めた。

 お店をあとにして、「三省堂書店」に立ち寄る。『ミス・ロンリーハーツ』は、『孤独な娘』と題した丸谷才一の翻訳が岩波文庫に入っていたはずだから、その翻訳をあんちょこにしながら原書を読もうと思っていたけれど、もう品切れになってしまっているようだった。辞書を引きながらだと、生きているうちに通読できるかどうか心許ないところだけれども、どうにか一生かけてこの一冊を読み切りたいと思う。

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