第1回 お茶とわたしと

201412_01.jpg 唐突ですが、私、池澤春菜はお茶が大好き。
 世の大半の人が嗜んでいるアルコールは、どうやら分解酵素がないらしくお付き合いできず。コーヒーはどうにも大人味すぎて踏み込めず。
 そうなると選択肢は、必然的に、お茶に。
 何かにつけてお茶を楽しんでいたある日、ふと「そんなに好きならもう少しちゃんと勉強してみてもいいかも」と思ったのがきっかけで、気がついたら中国は安徽省、安徽農業大学茶葉学科の門を叩き、高級評茶員、中級茶藝師、そして紅茶アドバイザーの資格まで取ってしまいました。

 気がつけばずぶずぶとはまり込んでいたお茶道。
 好きになった人のことは、もっとみんなに知って貰いたい。例えどんなに訳が分からなくて、無駄に奥深くて、面倒くさくて、厄介で、お金も時間も吸い取って、どこまでいっても本音を明かしてくれない、泥沼のような、究極のツンデレであっても。
 なので、これは私のお茶に対するラブレターであり。

 日常生活ではまったく使う機会のないお茶の専門的な知識、さりとてそれを本格的に職業に活かせるわけでもない。
 中途半端なお茶オタクの中途半端なお茶ガイドでもあり。

 知れば知るほどわかってきた、その奥の深さ。
 言うなれば、今は砂浜から波打ち際へ、脛のあたりまで海に浸かったところ。一歩踏み出したことによって、この海の底にはどうやらダイオウイカもマッコウクジラも、もしかしたらオールド・ワンことクトゥルーなんかもいるんじゃなかろうか......ということが見えてきてしまった。
 だからといって、いまさら引き返したら、今まで飲んできた何千杯というお茶がすっかり無駄に。毒を喰ららわば皿まで、お茶を飲むなら茶碗まで。
 お茶と一生添い遂げる覚悟を決めた私の決意表明、でもあるのかも。

 お茶を例えるのなら、私は、句読点だと思う。
 どんな良い文章も、句読点がないと読みづらい。適切な位置に「、」と「。」を打っていくことで、文章は意味がとおるものになり、リズムが生まれ、格段に読みやすくなる。
 私たちの生活の中でも、一度ゆるめたいとき、もう少し頑張りたいとき、頭を整理したいとき、背中を押して欲しいとき、一杯のお茶を飲むことでリズムが生まれる。
 お茶の葉がお湯の中でゆっくりと息を吹き返し、ほぐれ、しっかり抱え込んでいた香気や滋味や色彩を解き放つ時間。同じ三分でも、日によって長さが違う。同じお茶でも、日によって味が違う。お茶をいれるというのは、心をお茶に映して見ることなのかもしれない。
 中国茶の先生に、同じお茶を千回いれなさい、と言われたことがある。あまりに広大無辺なお茶の世界に途方に暮れ、「どうしたら、もっとお茶のことがわかりますか」と聞いたときに。返ってきたのが、「お茶千回」だった。そうしたら、そのお茶のことが少しだけわかるようになるよ、と。そう言われたところで、余計途方に暮れただけだったけれど......
 でも、千回は無理にしても、今まで何気なく飲んでいたお茶に今より少しだけ真摯に、丁寧に向き合うことが出来たら、今まで見えなかったものが見えてくるようになるかもしれない。
 無限に奥深く、恐ろしくも魅惑的なお茶道、もしよろしかったらご一緒。大丈夫、一緒なら怖くない......たぶんね。