第3回 坂本香料に、ミキサードリンクの起源を聞きにいく 〈後編〉

2.「焼酎ハイボール」の登場

 もちろん、ハイボール自体は戦前からありました。たとえば浅草『甘粕』は、昭和のはじめから現在に至るまでウイスキーのハイボールを出しつづけている、歴史の生き証人のようなお店です。

 炭酸で割る酒は、ウイスキーだと考えられており、ウイスキーの代用品として甲類焼酎を割るようになったわけです。焼酎の炭酸割りがポピュラーになったのは、戦後のこと。焼酎ハイボールそのものは、いわゆる山谷地区で発明されたといわれています(ファウラー著『山谷ブルース』参照)。

 堤野会長によると、「丸源飲料さんが昭和25~6年に『ウイスキータンサン』といって、炭酸にウイスキーの香料を入れたものを販売し、たいへん人気が出ました」とのこと。墨田区立花にある同社は大正6(1917)年創業の、東京でも指折りの古い歴史をもつ会社です。

 その丸源飲料工業株式会社・阿部勲夫会長に別途取材したところ、酒屋や飲み屋が、その店独特の割り材を自分で考案しており、「山谷のドヤ街なんかに、酒屋さんで、自分のところで作っている酎ハイと煮込みだけ置いてある、そんなお店がけっこうありましたよ」。焼酎ハイボールは「山谷から江東6区(台東・墨田・荒川・江東・足立・江戸川)へと広がっていったんです」と証言してくれました。この取材については、本連載で、いずれまとめて紹介します。

 トリスが都心のサラリーマンに洋酒ブームを巻き起こしていた時期に、甲類焼酎を使用したハイボールのイミテーションが、下町に出回っていました。

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(上) 三祐酒場
(下) 元祖ハイ
(Photo by Shibasaki)
 同じ頃、昭和26年か27年、曳舟の名店『三祐酒場』の奥野木祐治氏(故人)が、いわゆる元祖ハイを考案。店主の奥野木知恵子さんに取材したところ、「進駐軍のPXに行った兄が、ウイスキーのハイボールを見て考えたものです」と証言してくれました。

 さらに「うちで働いていた若い衆(中島茂さん)が、戦争から帰って、仕事を探して天羽飲料に持ち込んだ」結果、商品化されたのが「ハイボールA」だということです。

 1930年代のアメリカでは、レモンやグレナデンシロップなどをハイボールに加えることが流行し、またソーダに代えて、ジンジャーエールやコーラで割ることも行われたといいます(「All About」「ウイスキー&バー」ガイド・達磨信氏の記事参照)。私たちが飲んでいる元祖ハイや、関西発の甲類焼酎のウイルキンソン・ジンジャーエール割りは、はるか昔、1930年代アメリカの流行文化が、はるばる海を越え、戦後の東京や大阪の庶民向けの大衆酒場で変形して、21世紀まで生き残ったものとみることができます。そう考えると、歴史は本当におもしろいもの。

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