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2月26日(月)

 先週から奥歯が痛く、ずっと我慢していたのだが、もう我慢できなくなって歯医者に行く。イケメン医者で評判の玉川学園の歯科にいくと、イケメンであるだけでなく、わかりやすく説明してくれて、すっかりファンになってしまった。これなら流行るのも頷ける。

仕事場でギャロップの原稿を書いてから、新潮文庫アンソロジー第3巻の解説。今週は都心に出る用事が何もなく、ずっとこの仕事場にこもっきりの予定で、なんだか淋しい。先週の金曜日はマガジンハウスの女性雑誌「ボアオ」の取材を受け、夕方は中野のそば屋でサンケイスポーツの面々と飲み会を開いたが、こういうふうに都心の用事が重なる日は珍しい。毎週月曜に4週分のスケジュール表を書き直すのだが、その新スケジュール表によると、本日から3月23日までの4週間で外に出るのは4回のみ。そのうち2回は赤坂のTBSで、車で行って車で戻るだけだから、都心に出かけるとは言いづらい。ということは1ヵ月でたった2回だ。先週の金曜に、こういう機会でないとなかなか寄ることが少ないので本の雑誌編集部を訪れると、1週分の本がたまっていて、持って帰るのが大変だったことを思いだす。移転通知を各社に出したはずなのに、見ていただけなかったんでしょうか。各社からの寄贈本が山のようになっていたのだ。

 その封を一冊ずつ開けていたら、「文庫の解説、何本書いたか覚えていますか」と浜本。「どうかなあ。100本はないと思うなあ」と言うと、「170本ですね」と断言。どうしてそんなことを知っているんだ? すると浜本が差し出してきたのが、「北上次郎解説文庫リスト」。北海道の山下誠次さんが作成したリストで、編集部宛に届いたという。山下さんは私が解説した文庫を集めていて、170冊まで集めて、そこで行き詰まってしまったという。で、編集部宛に「そのリストの充実、完成をお願いしたく」、郵送してきたようだ。実は私、自分がどんな文庫の解説を書いたのか、記録もメモもない。その文庫本すら半分も書棚にない。もちろん解説を書いたときには版元から送っていただいたのだろうが、長い間に散逸してしまっている。だから「170冊」と聞いて驚いてしまった。そんなに書いていたの? しかし30年間に書いたものであるから、1年で割れば6冊弱だ。そう考えるとたいした数字ではない。

 驚いたのは、山下さんが作成したリストを見ても、忘れている作品が少なからずあったことだ。えっ、オレ、この文庫の解説を書いていたの? という本が実は少なくなかったのである。だいたい私は記憶力に自信がないので、つい最近も古本屋の棚で文庫本を手に取り、誰が解説を書いているんだと巻末を先に開いたら何のことはない私で、びっくりしたことがある。だから記憶にしたがってここで書いてもほとんど意味はないのだが、山下さんのリストで最初にあげられた文庫本を見て、あれれと思った話を書く。

 そのリストで最初にあげられていたのは、西村京太郎『D機関情報』(講談社文庫)だった。奥付に記載された発行日は1978年12月15日とある。これが最初の解説本なら、今年の暮れでちょうど30年になる。ホントに1年間に6冊の割合で解説を書いてきたことになる。ところが私、最初に書いたのは生島治郎の小説だった記憶があるのだ。私の記憶では、『D機関情報』は2番目だ。小説推理に時評の連載を始めたのは1978年の1月号からで、その春に集英社文庫のMさんから解説の依頼を受けたことははっきり覚えている。だから、1978年の夏ごろに、最初の解説本は出たはずだ。山下さんのリストの2番目に、集英社文庫の生島治郎『悪人専用』があげられているが、その発行は1979年の8月となっているから、これではない。その1年前に解説を書いた生島治郎の文庫本があるはずなのである。その題名を思いだせない。ネットで調べてみると、1978年の7月に、生島治郎『殺しの前に口笛を』が集英社文庫から出ている。すでに絶版となっていて、私の書棚にもないので確認できないが、私が最初に解説を書いた文庫本はこれではないだろうか。違っていたりして。つい最近も、川上健一『翼はいつまでも』の文庫本を書棚に見つけたので、この解説はオレが書いたんだよな、と手に取って巻末を見ると違う方だったので、私の記憶はアテにならない。

 ところで山下さん、宮部みゆき『魔術はささやく』(新潮文庫)と、馳星周『バンドーに訊け!』(文春文庫)の2冊がリストから欠けておりました。私がわかるのはそれだけです。町田暮らしを始めた翌月にあなたが作成したリストをいただき、新生活開始のいい記念になりました。ありがとうございます。

2月22日(木)

目黒考二の何もない日々

 町田に引っ込んで(というよりは戻って)、ようやく3週間が過ぎた。慣れない地で大丈夫かなあと心配だったが、まあ何とかなるものだ。まだ慣れないけど。

 ところでこの「何もない日々」を始めるにあたって、杉江からアドバイスをもらった。私の移転通知が届いていない人に最初にきちんと説明したほうがいいと言うのだ。笹塚の仕事場をたたんで町田の仕事場に引っ込む移転通知を1月末に発送したのだが、それをもらってないという人に会ったらしい。そういう局面に接すると、杉江はひどく気にするのである。優秀な営業マンは気配りの人なのである。そんなこと、全然考えてもいなかった。いいんじゃないどうでも、という気がしないでもないが、しかし杉江の忠告にここはおとなしく従うことにする。

 たいしたことではないのだ。私が年賀状を出さなくなってから5~6年がたつ。その代わりに、年賀状をいただいた方に年明けに寒中見舞いを出すことにしている。ようするに、暮れの忙しいときに年賀状を出すのは無理なのである。私の場合は。まあ面倒くさいというのは否定しないけど。それでも発行人のときは年賀状を書いていたが、その座を降りてからは、寒中見舞いシステムに変更した。で、今度の移転通知も寒中見舞いを兼ねているので、年賀状をいただいた人に出したのである。それだけ。これでいいかな杉江君。

 いま突然不安になったのだが、年賀状をいただいたのに、その返事を、つまりは移転通知を兼ねた寒中見舞いを出してない方もいるような気がしてきた。こういう場合はどうしたらいいんでしょうか杉江君。フォローのしようがないぞ。ま、済んでしまったことは仕方がない。どうせ不義理を重ねてきた人生だ。いいんだもう。

 ということで本日のご報告。隔週木曜にTBSラジオに出演しているのだが、本日がその出演日。笹塚にいたときは会社の前に、送迎の車が朝7時半にきた。それが町田になったので出発が6時50分に変更。前回はそれで十分だったので今朝もその時間に車に乗ったのである。首都高の根もと(つまり用賀の少し先、手前とも言うが)で事故が起こり、運転手氏は一般道を選択。

 木曜のブックナビというコーナーは私と岡崎武志さんが交代で出演しているのだが、岡崎さんは2回渋滞に巻き込まれて出演時間に間に合わず、仕方なく電話で出演したという話を前回Hディレクターから聞いたばかりなので、いやあそういうことがあったらしいんですよと運転手氏に話した。その段階では自分が間に合わないとは思ってもいない。大丈夫ですよと運転手氏も言うから、他人事である。裏道をすいすいと走って、やっぱりプロはすごいなあと感心していたら、あっという間に三軒茶屋の少し手前から246に入り、へーっ、ここに出るんだ。で、一区間だけですけど上に乗りましょうと池尻からまた首都高に乗ると、あれれ、大渋滞。事故は用賀の近くで起きたんだから、池尻はもう関係ないのだ。どうしてこんなところが混んでいるの? あとで知ったのだが、事故はもう一つあり、そちらが大事故。赤坂付近で首都高から車が落ちたらしい。

 そのために車の列はぴくりとも動かない。時間は刻々と過ぎていく。私の出演は8時21分である。だから8時15分にはTBSの1階に車が着いていなければならない。それでぎりぎりセーフ。ところが8時をすぎてもまだ渋谷のインターを降りられないのだ。降りれば赤坂はすぐなのに、仕方なくスタジオのHディレクターに電話をかけた。いくらなんでももう間に合わないので、電話出演がその場で決定したが、携帯だと音声が乱れるので、出来れば固定電話でかけてほしいと言う。しかしその時点ではまだ首都高の上なのである。固定電話なんてないぞ。ならば車を停めて携帯でやりましょうと先方は言う。いやもうずっと停まっているんだけど。

 8時15分にようやく渋谷のインターを降りることが出来、急いで裏道に入り、車を停めた。その段階で8時18分。ディレクターから電話出演の際の注意事項と指示があり、ようやく出演するとあっという間に出番が終わり、そのままUターンして首都高に乗り、町田にとんぼ帰り。だったら町田の自宅から電話をかければよかったなあ。思わず呟くと、「そうすると出演料が安くなるんじゃないですか」と運転手氏。なるほどなあ。帰りは下り車線だから、さっきの渋滞が嘘のようにがらがら。ふと隣を見ると、昇り車線は渋谷から用賀までずっと車の列が続いていた。自宅に戻ったのが9時20分。2時間半、ずっと車に乗りっぱなしの朝のドライブだった。

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