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2月28日(水)

 最近、仕事で会う人に、中学時代に「本の雑誌」を読んでいました、高校時代に読んでいました、と言われることが多い。向かい合うとそんなに年が離れているとは思えないのだが(もちろんこれは私の錯覚で、年は離れているんだけど)、そうか、彼が中学時代に「本の雑誌」を読んでいたのか、と言われるたびに感慨にふけってしまう。

 おととい、日経新聞の担当者が4月から代わるということで、前担当者、前々担当者、そして新担当者の3人で新宿で飲んだ。日経新聞の書評コラムを書くようになって8年ほどになるが(9年かなあ)、その初代の担当者T氏とは競馬友達になっている。T氏は私に連載を依頼して数カ月で大阪に転勤になったので、実は顔を覚えていなかったが(だって一度しか会ってないんだもん)、5年前に京都競馬場で声をかけられ、それ以来大阪に行くときは必ず一緒に競馬場に行った。数年前に東京に戻ってきたときは毎週だ。楽しかったなあ、あの2年間は。昨年の秋に東北に転勤になってからは会うことも少なくなったが(それでも月に一回、彼が東京に来たときや、秋の京都で合流したりと結構会っている)、どのレースが狙いだのと今でも毎週メールがくる。これほど気のあう仲間も少ない。なかなか得難い競馬友達なのである。てっきり同じ年かと思っていたら、「何を言うんですか、20も違いますよ」とあるとき言われてしまったが。

 で、そのT氏の話ではない。新しく担当になったH氏の話である。「実はお目にかかるの、初めてではないんです」とH氏が言ったのである。そう、どこかで会ってるの? ごめんね、ぼく、記憶力が悪いんで、覚えてないんだ。どこで会ったの? すると16年ほど前、大学生のときに彼は同人誌を作っていて、出版社のさまざまな人にインタビューを申し込んで、私にも会いに行ったというのである。

 「本の雑誌」の発行人だったころ、さまざまな人と会った。そのころにいただいた名刺が時折、机の中から出てくることがあり、はてどこで会ったんだろうと思うことが少なくない。もともと記憶力が悪いこともあり、一度しか会わなかった人は忘却の彼方なのである。当時の大学生、高校生たちとも会った。クラス文集のインタビューとか、ゼミのレポートのための取材とか、時間が許すかぎり引き受けて、私の話などがはたして何の役に立つのかわからないが、さまざまな依頼に応じてきた。H氏もその中の一人だったということだろう。

 私がふと心配になったのは、何か失礼な言い方をしなかっただろうかということだ。学生諸君を前にエラそうな言い方をしなかっただろうか。いや、そういうタイプじゃないから大丈夫だとは思うのだが、体調の悪い日だってあったに違いない。

 するとH氏、何を聞いたのか、私がどんな話をしたのか、まったく覚えていないというのだ。彼が覚えているのは、近くの喫茶店に行き(たぶん本の雑誌社が御苑の近くにあったころだ)、H氏を含む3人に、「君達、昼飯はもう食べたの? なんでも注文していいよ」と私が言ったことだという。「それしか覚えていないんです」とH氏は穏やかに笑うのである。もちろん私は何も覚えていない。

 そのときの同人誌は結局発行されず、私のインタビューも載らなかったらしいが、H氏が私に悪い印象を持っていなかったことを確認し、よかったなあと深夜遅くまで紹興酒を飲んだのだった。

2月20日(火)

 本の雑誌社に行くと、『笹塚日記 ご隠居編』が本日取次に搬入と黒板に書かれていた。先週見本は貰っているのだが、改めて読んでいると奥から、「どうですか」と杉江がやってきた。今回の「ご隠居篇」には、日記に登場するいろいろな人にコメントをもらい、それが載っているのだが、なにも秘密に進行することもなかったのにと思う。そういう趣向であることを言ってもらえれば、あの人にも書いてもらいたいという人がまだまだいたのである。今さらこんなことを言っても遅いのだが。

 それにしても、みなさん、忙しいだろうに、こんな依頼をしてホントにすまない。先週土曜に松村の結婚パーティであった新潮社のT内は、「目黒さんをくさしたの、ぼくだけなんだって」と恐縮していたが、いいんだよ好きに書いて。新宿の床屋に寄ってから帰途。仕事場に戻ってくると電話。週刊文春のインタビュー依頼がいきますからねと浜田。『笹塚日記 ご隠居篇』を取り上げてくれるらしい。ありがたいことである。

 1ヵ月分のスケジュールを書き直すと、なんとこれからの4週間に外出するのが14回。毎週土日の競馬場出撃も外出と計算して足すと、合計が22回になる。もっともそのうち6回は3日間に集中しているから、実質の外出は19日。それでも28日間で19日とはすごい。この20年間でこんなに外出する月も初めて。新記録だ。今月はパーティ、打ち上げ飲み会、取材、収録、引き継ぎ打ち合わせ、座談会と、惑星直列のように繋がっている。これで締め切りはこなせるんだろうか。ま、なんとかなるか。

 ところで本日は無事に帰ってくることが出来た。実は先週、新宿に用事があって出かけたのだが、いざ帰る段になったら、京王線に乗ろうとしているのでびっくり。ぼんやりして歩いていると、体が笹塚に帰ろうとするのだ。改札を抜ける寸前に気がついて、あわてて小田急線のほうに戻ったが、なんだかなあ。

 きのうの睡眠時間が足りなかったのか、床屋でも眠ったまま。昔はいっさい話しかけてこなかったのに、最近は床屋のおやじがよく話しかけてくる。たいした話ではない。外は寒いの、とかなんとか、そんな類のことだが、今日は眠くて眠くて、返事も出来なかった。小田急線に乗ってもまだ眠く、あわてて町田で飛び下りたが、外に出ると寒いから目がぱっちり。おかげで本日分の仕事をこなすことが出来た。この仕事部屋も寒いので、滅多なことでは眠くならない。寒い部屋の効用といっていい。で、今日も特別何もなく、日が暮れるのである。

2月15日(木)

 町田で暮らすようになって最大の変化は、夜型だったのが昼型に移行してしまったことだ。笹塚で暮らしていたときは、夜明けまで本を読んでいて、それから就寝。起きだすのはいつも昼すぎだった。

 それが町田に引っ込んでからは、夜の12時になると就寝してしまうのである。まあ時には深夜1時とかになることもあるけれど、それでも以前よりずいぶん早い。で、朝の8時とか9時には起きるのである。午前中は自宅で本を読んでいたりしているが、午後から仕事場に出勤。晩飯のために一度は自宅に戻るけれど、夜はまた歩いて5分の仕事場に通勤するのだ。夜の11時すぎには帰宅して風呂に入って就寝。まったく健康的な生活といっていい。

 なぜ昼型に変わってしまったかというと、この仕事部屋が異常に寒いのである。エアコンをつけていても、夜になると底冷えがするのだ。昼間、まったく陽がささない部屋なので、それはもう極端に寒い。だから、夜の11時ごろまでは我慢しているが、それが限界。早く自宅に戻りたくなってくる。あんまり寒い日は、それで本を読むだけの日は、晩飯後にも仕事部屋に戻らず、自宅の炬燵で読書を続けることもある。原稿を書かなければならない日は、この仕事部屋にこないと書けないので、仕方なく寒い部屋にやってくるけれど、まるで冷凍庫にいるみたいなのである。いや、実際に冷凍庫に入ったことがないのでわからないが。

 だから、春になって、そして夏になれば、また簡単に夜型に戻ってしまうのかもしれないが、しかしこの昼型生活をただいまは結構気にいっている。なんだか世の中のみなさんと同じ暮らしをしているような気がして、ほっと落ち着くものを感じるのである。

 笹塚にいたころ、夕方に起きだして(そういう日もあったのだ)、駅の近くまで歩いていくと、通勤帰りのサラリーマンと会うことがあり、そういうとき、「いいなあ、これからきっとビールでも飲んで、楽しい夜が待っているんだろうな」と思うことがあった。こっちはこれから朝まで仕事だぜ、となんだか不公平なような気がしたものである。

 それが最近は、朝起きて仕事部屋に向かう途中、さすがにその時間ではもうサラリーマンは出勤していて、すれ違うこともないけれど、世の中のみなさんと同じ時間に仕事しているような気になってくる。ようやく正道に戻ったような気がするのだ。ホントにこれで正道かどうかは知らないが。

 先週の木曜日に目覚まし時計が鳴ったことに気がつかず、寝坊したためにTBSラジオの生出演にふたたび危うい局面があり(ぎりぎり間に合ったけれど、スタジオ入りが5分前だった)、日曜に近くのスーパーに目覚まし時計を買いに行った。それまで使っていたやつは、旅行用の折り畳み携帯時計で、音が小さいのである。それでも競馬のときには、目覚ましが鳴る寸前に起きたりしていたのだが、今度はもっと大きな音のするやつを買おう。この春から、長男が就職し、次男が大学に進むので、彼らも目覚ましが必要だろうと3個購入。

 その3つの目覚まし時計は毎朝8時に鳴り出す。息子らの新生活は4月から始まるのだが、今から早起きの習慣をつけるために(たぶんそうだと思う)、彼らの時計も私と同じ8時にセットしてあるようで、その時刻なると、いっせいに鳴り出す。その意気込みはいいのだが、残念ながらずっと鳴りっぱなしで誰も起きてこない。なにしろ大きな音のするやつをわざわざ買ったから、それは凄まじい音なのだが、みんながすやすや。まだ4月になったわけじゃないし、いまは練習期間だからまだいいかと、早起きの習慣のついた私は、玄関で愛犬の頭を撫でているのである。

2月6日(火)

 新刊を探しに新宿へ。新刊の玉がないのだ。紀伊國屋書店新宿南店の3階で、榊邦彦『100万分の1の恋人』(新潮社)と、藤堂志津子『若くない日々』(幻冬舎)を購入してから4階の文庫売り場にいくと、北上次郎編『14歳の本棚 部活学園編』(新潮文庫)が新刊コーナーに並んでいた。

 4月に「初恋友情編」、5月に「家族兄弟編」が出て、この『14歳の本棚』は完結する。これ、もともとは酒場の話がきっかけだった。2年ほど前に、新潮社のS氏と、某K書店の某S氏と3人で飲んだとき、こんなアンソロジーをやりたいんだよねと話したのだ。そのときはいろんな話をしたから、すっかり忘れていたらその2週後に新潮社のS氏から電話がきて、「あれ、企画会議を通りましたから」と言うので、びっくり。おまけに、今度担当者から連絡させますと言うのである。そうか、酒の席の話では終わらなかったんだ。こうなると、こちらも本腰を入れなければならない。

 最初の企画では「中学生小説叢書」という名称だった。さまざまな小説の中から、中学生が登場するくだりを集めたかったのである。『部活学園編』の巻末にも書いたけれど、そのきっかけはずいぶん昔、井上靖『夏草冬濤』を読んだのがきっかけである。大学を卒業してすぐのころだったから、もう35年以上前のことだ。周知のように、『しろばんば』『夏草冬濤』『北の海』と、井上靖の自伝的小説は続いていくが、その真ん中が中学生編なのである。こういう小説をもっと読みたい、と思い始め、いつからか、中学生小説叢書を編みたいと思うようになった。つまり、私の夢の一つだった。

 アンソロジーを編むのは2度目である。『海を渡った日本人』(福武文庫)というアンソロジーをずいぶん前に編んだことがある。幕末から明治にかけて、海を渡って帰ってこなかった日本人について書かれた歴史読み物が大好きで、そういう記録を集めてみたかったのである。ウラジオストックからベルリンまで、冬のシベリア大陸を横断した明治の玉井喜作の記録が当時は絶版だったので(今も絶版だけど)、これを真ん中に置いて構成してみた。これも楽しい仕事だった。

 実現しないアンソロジーもある。こちらは、もう15年以上前に考えたもので、某社の某氏に話したらすぐに賛同していただき、文庫で全10巻という構成まで決まっていた。私ひとりの手には余るので、途中から某氏に協力を依頼し、快諾までもらったのである。全部某氏としか書けないのは、まだ実現していないからである。私がさぼっていたからいけないのだが。生きている間に出来るかなあ。

「中学生小説叢書」は『14歳の本棚』という名称に変わってしまったが、中身は変わらない。売れてくれればいいのだが。

 まだ新刊は他にもあるかとジュンク堂まで足を伸ばしてみた。6~8階と売り場がひろがったのは先週だが、時間があれば、3フロアすべてを見てまわるつもりでいた。その昔、池袋の旭屋書店に6時間いたことがあって、とても楽しい思い出だったから、また長時間、書店滞在をしてみたかったのである。書店の棚には数々の発見がある。

 ところが7階で新刊を探し終わると、なんだか疲れてしまった。そんなに時間もないということもあるが、もう6時間立っている体力そのものがない。元気なときにまたくるね、とジュンク堂をあとにしたのだった。

2月1日(木)

 どうやら今度は本当に花粉症になったようだ。数年前にも、花粉症になったと大騒ぎしていたらただの風邪だったことがあり、今回も風邪かなあと最初は思っていたのだが、鼻水だけにとどまらず、くしゃみが止まらず、目もかゆい。いやあ、辛いんですね。これまでは他人事だったので、周囲に花粉症の人がいても、大変だねえと言うだけだったが、体がだるくて集中力がなくなるのは困りものだ。まあもともと集中力は欠けているのだが。新聞を見ると、これで花粉は例年の20%だというからびっくり。100%になったらどうなるんだ。沖縄には花粉がないというから、私も沖縄に行きたい。

 ただいまは『14歳の本棚』(新潮文庫)の第3回刊行「家族兄弟篇」の解説を書いているのだが(担当者から通告された締め切りは2月20日だが、私のスケジュールでは今週末が締め切り)、そのために過去に書いた原稿を調べていたら、多島斗志之『離愁』(角川文庫)の解説が出てきた。これを読んだら、途端に思いだした。

 実は、昨年秋に刊行した『エンターテインメント作家ファイル108 国内編』(本の雑誌社)にはこの解説原稿が収録されていない。どうして収録しなかったのかなあ。この本は杉江が作ってくれた本で、私は何もしていないから、いまさらこんなことを言えた義理ではないのだが。思いだしたのは、その解説の冒頭で紹介したある風景だ。長くなるが引く。

「数年前のある光景を思いだす。東京競馬場の1階で、とても気になる男女を見たのだ。現在は取り壊されてしまった旧スタンドの、一般席ではなく、建物の中の長椅子に、その男女は座っていた。楽しそうに笑っていたのだ。二人の体はぴったりくっついて、競馬新聞をひろげて何やら本当に楽しそうだった。

 競馬場でカップルを見るのは珍しくないが、その二人が印象的だったのは、白髪の女性が六十歳前後で、男性のほうは三十代後半に見えたからである。女性のほうは上品なご婦人で、若い男性も知的な雰囲気だった。そういう年齢差のカップルがいても不思議ではないが、性的関係のある親しさには見えなかった。二人の体がくっついているのは、彼らの座っている長椅子が四人座るには狭すぎて、そうならざるを得ないからだ。そこに性的ニュアンスはない。しかし、親子や職場の同僚にしては親しすぎる。ではどういう関係なのか。いくら考えてもわからなかった。彼らの姿が目にとまったのはそのためだろう。

 競馬場で体をくっつけているカップルを見るといつも腹を立てる私にしては珍しいが、その二人に性的関係があってもいい、と思った。もし彼らが年齢差を超えた恋人同士なら、祝福したいようなカップルなのである。それほど彼らは自然に笑っていた。仲間に入れてくれ、と言いそうになったほど、楽しそうだった」

 これが、多島斗志之『離愁』(角川文庫)の巻末に寄せた私の解説の冒頭部分である。それからずいぶんたって『離愁』を読んだとき、あのカップルは叔母と甥だったかもしれないと気がついた、というふうに私の解説は進んでいくのだが(その『離愁』が叔母と甥の物語なのである)、つまり、

 「あのカップルの仲の良さは、叔母と甥のものであったと考えると理解しやすい。親子にしては親しすぎること、恋人にしては性的ニュアンスがなかったことの説明も、それで解ける。すごく気のあった叔母と甥なら、あんなふうに楽しそうに笑い合っても不思議ではない。一人暮らしの甥と独身の叔母が、たまの日曜日に共通の趣味である競馬を楽しみに東京競馬場にやってきた図、と思えないことはないのだ」

 競馬場にはさまざまな人がいて、さまざまな光景を目撃するが、長い競馬人生の間でもいちばん印象に残っているのが、実に楽しそうに笑い合っていたこのカップルの姿なのである。あれからもう10年近い年月がたっている。あのときの叔母と甥はいまどこでどうしているだろうか。ふと思いが馳せていくのである。

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