4月12日(木)

 杉江の日記を読んでいたら、赤坂のランダムウォークで「帰らない男たちフェア」をやっていると出ていた。何なんだその「帰らない男たち」って、と思ったら、そこに私の『笹塚日記』も並んでいるというからびっくり。壇一雄、ケルアック、西村賢太らの作品と『笹塚日記』が並ぶのでは、杉江が爆笑するのも無理はない。

 拙著をフェアの一冊に選んでくれたランダムウォークには足を向けて寝ることが出来ないが、しかし私、「帰らない」のではないのだ。杉江は「帰らない男」ではなく、「帰れない男」もしくは「帰る機会を失った男」だと書いていたが、そうでもない。

「帰らない」でも「帰れない」でも、どちらにしても、彷徨というニュアンスがある。前者には強い意思が、後者には流されていくニュアンスがあるものの、彷徨というイメージでは共通している。ところが私の場合、彷徨というニュアンスはまったくない。

 私、「帰らない」と決めていたわけではない。「帰れない」わけでもなかった。笹塚のビルの4階でずっと本を読んでいると、動くのが面倒になるのだ。同じところにずっといたほうが読書ははかどるのである。電車の中でも本は読めるけれど、駅まで歩いたり、切符を買ったりするのは面倒くさい。で、はっと気がつくと5年。いや、その前の、社に泊り込んでいた20年を入れれば25年があっという間に過ぎていた。ただ、それだけである。

 だから、彷徨のまったく逆、むしろ定住型といっていい。手の届くところにたくさんの本があり、原稿を書く環境が整っていれば、そこにずっといたいのである。移動するのは面倒なのだ。それがたまたま会社であったり、社のビルの最上階だっただけだ。私にすれば、「動かない男」であっただけ、という思いがある。家人にしてみれば、たしかに「帰ってこない男」ではあっただろうから、その言い方でも間違いではないのだが。

 したがって町田暮らしが始まると、今度はそこから動くのが面倒になってくる。人の性格はそんなに簡単には変わらない。自宅から歩いて5分のところにある仕事場に行くと、もうそこにずっといたいのである。手の届くところに本はたくさんあるし、原稿を書く環境は整っているし、メールのやりとりも出来るなら、他に行く必要はない。新宿や神田に出かけていくのが面倒くさくなるのだ。ようするに、本に囲まれていさえすれば、笹塚でも町田でも、どこでもいいのだ。つまり、「帰らない男」が自宅に帰ったのではなく、動くのが面倒な人間がその居場所を笹塚から町田に変えただけなのである。

 笹塚を離れて、社員諸君と無駄話も出来なくなったことはたしかに淋しいが、そのくらいは仕方のないことだ。男の子なんだから我慢しなければならない。以前なら新刊を探しに、新宿や神田にすぐ出かけていったけれど、それが遠くなったことは不便でもある。そういう変化は確実にあり、以前のほうがよかったよなあと思わないでもないが、まあそれも仕方ない。

 困るのは、スポーツ新聞も週末以外には買わなくなったので、それに自宅のテレビはサッカーしかやっていないので、世の中で何が起きているか、わからないことだ。いや、以前もそうだったんだけど。笹塚にいたときは杉江がこまめに新刊の情報を教えてくれてとてもありがたかったが、こちらの仕事場にいると、どんな新刊が出ているのかわからないのがいちばん困る。週に一度は仕方なく、新宿や神田に出かけていくが、どこの書店にも新刊が山のように積まれていて、いやあ都会はすごいなあとため息が出てくる。

 きのうは吉川英治文学賞のパーティで、出席するつもりだったのだが、仕事が押して欠席。行きたかったなあ。そうか。以前よりも業界のパーティに積極的に出席するつもりになっているのは、やっぱり町田に引っ込んで淋しくなっているからなのだろうか。

 でも、たったいま、待ちに待ったゲラ2本が送られてきて、それをこれから読むのである。きっと傑作に違いない、と思っただけで胸が躍ってくる。いやあ、きっとすごいぜ。とまあ、今日も町田の1日が始まるのである。