6月12日(火)

 郵便物が溜まってますよ、と杉江からメールを貰ったので、きのうは久しぶりに本の雑誌社に行った。「目黒さん、こないだ飲み屋で私のこと、ヘンなふうに言ったでしょ」といきなり浜田が話しかけてくる。えっ、覚えてないんだけど、何か言ったかなあ。それにどうして筒抜けなんだ?「でね、聞いてくださいよ。今日は休刊日?って聞いたんですよ。そうしたら、杉ぴょんが、お前が呑もうが呑むまいが、オレは関係ないって」。つまり杉江の耳には「休肝日」って聞こえたわけですね。本の雑誌社は相変わらず穏やかなようである。

 新宿のコインロッカーに荷物を置いてから飯田橋へ。まだ時間があったので、書店で本を物色。高島俊男『座右の名文』(文春新書)が目にとまる。私はこの人のファンなのだが、即購入したのはまえがきを立ち読みしたら、数年前に本の雑誌に書いた「私のオールタイムベストテン」がきっかけとなってこの本が生まれたと書いてあったからでもある。その「私のオールタイムベストテン」では、実質的に十人のうち最初の二人の話をしただけで紙幅いっぱいになってしまい、それを読んだ文春の編集者が、十人全部についてもうすこしゆっくり話をして本一冊にしましょうと言ってきたのだという。そういう経緯の本なら読まなければならない。

 高島俊男さんの本を最初に読んだのは『水滸伝と日本人』で、それ一発でファンになってしまった。それ以来、大半の本を読んでいると思う。『座右の名文』の中に、essayは現在の日本語のエッセイとは違って、研究者や知識人がなんらかのテーマをもうけて一般知識人むけにわかりやすく興味深く書いた文章、小論文とでもいうようなものだ、というくだりが出てくるが、この言葉を借りれば、高島俊男さんの文章こそ、まさしくessayなのである。

 たとえば本書の冒頭、新井白石の項に、『折りたく柴の記』は日本最初の自伝だったというくだりがある。それ以前には第三者の書く伝記はあっても、自分で伝記を書く習慣はなかったという。ではなぜ、新井白石は自分で伝記を書いたのか。白石は将軍の家庭教師にとどまらず、政治顧問として外交、財政、司法と広範囲な活躍をしたが、家宣、家継が死んだあと、江戸城から追われ、不遇の晩年を過ごしたからだと高島さんは書いている。自分が徳川幕府のために、あるいは日本の国のためにこういう立派な有益な仕事をした、こんな業績をのこしたという記述が全体の三分の二以上を占めているのは、誰も自分のことを書いてくれないだろうから、だったら自分で書くしかないということだったらしい。いまの新宿あたり(当時は畑ばかり)に居をかまえるも訪ねてくる者は誰もいず、淋しい晩年だったようだ。『折りたく柴の記』はそういう日々の中で書かれたのである。

 あるいは津田左右吉の項では早稲田に関する記述が興味深い。明治時代の中学校は四月に始まって三月におわる。高等学校と大学は、九月から七月が一年度で、理想に燃える若者は地方の中学を三月に出ると、誰もがすぐ東京に出て、しばらく予備校に通って勉強し、七月の高等学校の入学試験をうけて、合格すると九月から一年生になる。

 面白いのはこの先だ。商売上手な早稲田は、この学校制度をうまく利用して入学生をつのったというのである。

 「四月から一年生にしてやるから、まず早稲田に入れ。そうすれば八月までのあいだに一年分の授業をするから、同級生が高等学校の1年生になる九月には、うちでは二年生になれますよ、というわけである。一年もうけるわけだ。三月に中学を出た者は、半年後にはもうはや二年生になれる。そういう売り文句で、お客さんを集めた」

 書かれてあることもこのように興味深いが、高島さんの文章はわかりやすいので、ついつい読みふけってしまう。遅い昼食を食べながら読み続け、所用を終えて新宿に戻る電車の中でも読み、とうとう車中で読了してしまった。

 新宿の紀伊國屋書店南店に行き、新刊を探索し、目当てのものがなかったので数冊購入してからジュンク堂にまわるがここにもなく、仕方なくこの日は帰ってきたが、探していた新刊が何だったのかについては、またの機会にする。

 あ、そうだ。自宅に戻って書棚を見たら、『座右の名文』があったことも書いておかなければならない。送っていただいたことをすっかり失念していたのだった。書店で手に取ったとき、どこかで見たことのある本だなあと思っていたのだが、まさか自分の書棚にあったとは。