2月4日(月)

 ハードディスクに入っている原稿を見ていたら、『私の死亡記事』(文春)が刊行されたときに某誌に書いた原稿が目にとまった。自分で自分の死亡記事を書いたらどうなるかという本を読んで、私も自分の死亡記事を書いてみたという原稿である。
 以下は、その死亡記事の全文である。

 今年の四月、上海の中央競馬場において死体で発見された日本人老人の身元が本の雑誌社の初代社長目黒考二氏とこのたび判明。日本大使館から遺族に連絡がきたものの、遺族が引き取りを拒否したため、本の雑誌社の杉江由次会長(70歳)が現地に向かうことになった。氏は一九七六年に、作家椎名誠氏と書評誌「本の雑誌」を創刊。2001年に退職し、しばらくはエッセイその他を各雑誌等に書いていたが、2012年に出奔。行方不明となっていた。氏は「本の雑誌」発行人の傍ら北上次郎名でミステリー評論などを書き、本名でエッセイ等を書いていたが、見るべきものはない。出奔とした理由として当時あげられていたのは、2005年から書きはじめた『わが父』(マガジンハウス)と、同年から執筆を開始した『世界の家族』(筑摩書房)が不評であったことにショックを受けたためと噂されたが、その真意は不明。笹塚駅前の本社ビル12階で、「行方不明になってから27年もたってますから、まさか中国にいたとは想像外でした。困っていたのなら連絡を欲しかったです。何といってもわが社の創設者ですから、連絡さえくれればどんな援助もしたのにと思うと残念です」と杉江会長は語ったが、出奔の理由と引き取りを拒否した遺族の真意については言及を避けた。その間の事情について語ってくれたのは、新宿で貸しビル業を営む太田篤哉氏(95歳)で、「これはあくまでも噂ですが、あの人は家庭を省みなかったんで、その罰が当たったんでしょうね。息子さんでも生きていればまた別なんでしょうが、孫の時代となるとね。それに椎名さんも木村さんももうとうの昔に亡くなっているから、相談できる人もいなかったんじゃないかなあ。我々の歳になると知り合いも少なくなっているから淋しいですよ」と、一代で財を成した新宿の貸しビル王は淋しく笑った。老人ホーム「らくらくえん」(町田市)に在住の沢野ひとし氏(94歳)は、「競馬場で死ぬなんて目黒くんらしいねえ。あれ、知らないの? 彼は競馬の本を何冊も書いているんだよ。ペンネームは何と言ったかなあ。藤沢三郎とか四郎とか。あまり売れなかったらしいから、覚えている人もいないだろうけどね。ところでキミ、ぼくはいま新しい文学を書いているんだよ。どこで発表しようか考えているところだから、ぜひにと言うならキミのところでいいよ。あれ、どうして帰るの? まだ話が終わってない!」とテーブルをどんと叩いた。


 これがそのときに書いた死亡記事の全文だが、ようするに私は、どうせ死ぬなら競馬場で死にたいと思っているのである。この考えは今も変わらない。そのときに握りしめている馬券の中身についてまで、そのときは書いているが、あまりセコイ馬券を買ったときには(これが結構少なくない)死にたくない、という考えも変化なし。あいつ、こんな馬券を買ってたのかよ、とは言われたくないのだ。

 では、どういう馬券を握りしめて死にたいのか、ということについて書き出すと長くなるので今回はやめておく。