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2月26日(水)

 知人のネット日記を読んでいたら、文庫解説を書いたのにその文庫を一冊しか送ってこない版元があると書いていた。怒っているというよりも不満というニュアンスだ。

 普通、本を出版すると「著者用」として何部かが版元から著者に贈呈される。その部数は出版社によって異なるが、10冊〜20冊くらい。無料なのはそれだけで、それ以外の部数を著者が必要とする場合は(たとえば、知り合いに寄贈したいという場合など)、版元から著者が買い取るのが通例である。

 文庫解説はその応用バージョンといっていい。著者ではないから10冊も15冊も送る必要はない。しかし一冊きりというのは愛想なしだと思うのかどうか、解説者に2冊郵送するケースが多い。それが一冊しか送ってこなかったので、知人は不満を書いたわけである。

 その程度のことで契約書を交わすわけではないから、二冊郵送はこの業界の慣習のようなもので、二冊でなければいけないというものではない。何とはなしに、いつの間にかそういうケースが圧倒的に多くなっているということだ。

 しかし私、実は二冊も送ってこなくてもいいと考えている。本が増えるだけではないか。ただでさえ本の収容に困っているのに、同じ本が二冊も送られてくるというのは、困るとまでは言わないが、少なくても歓迎すべき事態ではない。通常の献本は一冊だから、封を切って二冊入っていると、そうか、オレが解説を書いたんだと気づく効用はあるけれど、それくらいか。

 実際に二冊送られてきても、書棚に置いておくのは一冊だけだから、あと一冊は処分に困って知人に進呈するケースが多い。笹塚にいたときは、そういうのは一階に持っていったが、いまは遠く離れているのでわざわざ持っていくのも面倒だ。

 そうか。一冊して送ってこないと不満を述べた知人も、知り合いに進呈したいのに一冊しか送られてこないのでは友人に進呈することも出来ない、ということなのかも。

 私の個人的な希望を書けば、最初に一冊、一年後にもう一冊という分送をしてもらえると嬉しい。一年もたつと、本が見つけられなくなっているから、こういうふうにわけて送ってもらえるなら助かる。二年後のほうがもっと嬉しいし、十年後なら絶対に紛失しているから泣きたくなるほど嬉しい。ま、無理だろうけど。

 それよりも私の不満を書いておけば、ゲラ(もしくはプルーフ)を読んでから、版元のPR誌に書評を書くことがあるが、その後にゲラから単行本になったあと、その単行本が送られてこないケースが時々あることだ。

 誤解されないように書いておけば、これも版元側が必ず送らなければならない、と決められているわけではない。著者でもないし、解説者でもない。ただ書評を書いただけの人間に、その本を無料で贈呈する義務は版元にない。

 だからこれも慣例の域を出ないことだけど、ゲラ(もしくはプルーフ)を読んで版元のPR誌に書評を書いた人間には完成本を贈呈するという慣習がこの業界にはある。ようするに、お礼ですね。

 だから、送ってこなくてもいいのだ。今日からそのシステムは中止、ということでも一向にかまわない。買えばいいだけの話である。

 しかし、まだこの業界には慣習というものがあるから、せこい話だが、本が届くのを待っていたりする。で、えっ、来ないのかよ、と気がつくのである。書評を書いた側からすると、気にいったから書評を書いたのである。それなのにその本が自分の書棚にないのは淋しい。つまり二冊はいらないが、1冊は欲しいのである。たぶんそのときの担当者が本を送る手配を忘れただけなのだろうが、それをいちいち催促するのもなんだし、年に一度くらいしかないことだから、ま、いいかと思っているのである。

2月18日(火)

 禁煙生活を始めて、そろそろ1ヵ月になる。あれから1本も吸っていない。禁煙はもっと大変なものだと思っていたが、こんなに簡単なものであったのかと驚いている。辛いのは最初の数日だけだ。その数日はホントに辛いが、それを過ぎてしまえば、あとは嘘のように平気になる。ずいぶん前に禁煙を実施した杉江君から、なかなか辛いですから禁煙補助剤を買ってきたほうがいいですよ、とメールがきて、急いで「ニコレット」というニコチンガムを買いに行ったが、それも結局は買ったままで封も切っていない。
 最初に心配していたのは、いらいらして仕事にならないのではないか、ということだった。原稿につまると以前はそこで一服していたのだが、それが出来ないとなると、仕事が捗らないのではないか。そう考えていたのだが、全然OKである。いまでも吸いたくなるのは酒を飲んだときだけ。これは無性に吸いたくなる。以前ならここで一服したよなというときに、することがないので手持ち無沙汰になり、仕方なくまたグラスを口に運ぶのである。つまり酒を飲むピッチが早くなる。だから酔うのが早い。違いはそれくらいか。
 現在は分煙社会だから競馬場でも喫煙コーナーはガラスで区切られている。そこを通りかかるたびに、煙草を吸っている人を見ることがあり、いいなあと思う。自分の健康のために禁煙したわけではないから、煙草を吸う人がいまでも羨ましいのだ。いつだったか町中の喫煙コーナーの近くを通りかかったら、紫煙が漂ってきて、思わずそこで足を止めたこともある。紫煙が甘いものだとは思ってもいなかった。すごくいいのだ。その甘い香りをいつまでも嗅いでいたい。
 ところが禁煙したと言うと、目の前で吸わなくなる人が少なくない。どんどん吸ってください、とは言うのだが、やはり遠慮するのだろうか。こないだは競馬友達と競馬場の帰りに居酒屋に入ったとき、「煙草を吸ってさ、オレの顔にふっとかけて」と言ったら笑われてしまった。
 ほんの時々、こんなに簡単に禁煙が出来るのなら、時々一本くらい吸ってもいいのではないか、と思うことがある。誰も見ていないんだしと部屋の中で思うこともあれば、居酒屋でグラスを傾けながら思うこともある。どうせすぐにやめられるのなら、一本くらいいいよなと思うのである。いや、吸わないけどね。

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