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2月19日(火)

 今週の月曜から禁煙生活を開始した。ただいま3日目で、とっても辛い。事の起こりは日曜の深夜の電話だ。

 こんな時間に何だろうと思ったら、高校時代の友人で、酔っぱらっている。どうしたの、と尋ねると、翌日から入院すると言うのでびっくり。彼は大学で体育を教えている現役の教師なのだ。その体の鍛え方は本格的で、メタボ状態の私とは違って、いまでも筋肉質の体は引き締まっている。そういう彼がまさか癌になろうとは予想外。私が癌になっても驚かないが、彼が癌になるとは驚きだ。

 私には友達が少なく、小・中・高・大学を通じて、いまでも定期的に会っている級友は彼だけなのである。年に数回、彼から電話がきて飲む。もう四十年以上の付き合いだ。昨年秋には、彼の自宅の近くのスパに行った。台風が東京を直撃した日で、揺れる木々を見ながら静かにビールを飲んだことを思い出す。

 昔と違って、いまは癌になっても、必ずしもそれでたちまち生命が終わりになるということではなく、癌とともに生きるケースも少なくないという。だからたとえ手術した結果、彼が本当に癌であったとしても、それで彼の命がすぐさま終わりになるということを意味しない。その場合は、癌が再発しないように祈りながら、癌と折り合って生きていくということだ。いや、悪性なのか良性なのか、腫瘍を摘出してみないとまだわからないので、良性の可能性は残されているが、たとえそれが悪性であったとしても、まだ希望は残されているということだ。

「明日、入院するっていうのに酒を飲んでいいのかよ」と言うと、「だって酒はいかんという注意書きはないぞ。それに明日は入院するだけで、検査はその翌日だし」。酒を飲んだのも1年半ぶりということなので、すでに酔いがまわっているようだ。だから最後に、「お前、オレが死んだら煙草をやめるって約束しろ」と言ったのも、特に深い意味はないのだろう。酔っぱらいには逆らわないようにしているので「わかったよ」と電話を切ったけれど、そのあとで、はたと思った。

 友が死んだから禁煙する、ってのはイヤだ。その辛さを我慢するのは、友に生きていて欲しいからだ。それなら理解できる。友が死んでしまったら、もうどうでもいい。禁煙する必要もない。その瞬間、よし、いま、禁煙しよう、と思った。

 禁煙しようと思ったのは実は生涯二度目である。最初は長男が生まれたときだったが、口淋しさのあまり、キャンディ一袋を一日に空け、たちまち太ってしまったので、挫折。それ以来、試したこともない。はたして今回の禁煙はどこまで出来るやら。開始から3日目、ホントに辛い。私、そんなに意思強くないし、無理だよなあ、絶対だめだよなあ。

2月4日(月)

 ハードディスクに入っている原稿を見ていたら、『私の死亡記事』(文春)が刊行されたときに某誌に書いた原稿が目にとまった。自分で自分の死亡記事を書いたらどうなるかという本を読んで、私も自分の死亡記事を書いてみたという原稿である。
 以下は、その死亡記事の全文である。

 今年の四月、上海の中央競馬場において死体で発見された日本人老人の身元が本の雑誌社の初代社長目黒考二氏とこのたび判明。日本大使館から遺族に連絡がきたものの、遺族が引き取りを拒否したため、本の雑誌社の杉江由次会長(70歳)が現地に向かうことになった。氏は一九七六年に、作家椎名誠氏と書評誌「本の雑誌」を創刊。2001年に退職し、しばらくはエッセイその他を各雑誌等に書いていたが、2012年に出奔。行方不明となっていた。氏は「本の雑誌」発行人の傍ら北上次郎名でミステリー評論などを書き、本名でエッセイ等を書いていたが、見るべきものはない。出奔とした理由として当時あげられていたのは、2005年から書きはじめた『わが父』(マガジンハウス)と、同年から執筆を開始した『世界の家族』(筑摩書房)が不評であったことにショックを受けたためと噂されたが、その真意は不明。笹塚駅前の本社ビル12階で、「行方不明になってから27年もたってますから、まさか中国にいたとは想像外でした。困っていたのなら連絡を欲しかったです。何といってもわが社の創設者ですから、連絡さえくれればどんな援助もしたのにと思うと残念です」と杉江会長は語ったが、出奔の理由と引き取りを拒否した遺族の真意については言及を避けた。その間の事情について語ってくれたのは、新宿で貸しビル業を営む太田篤哉氏(95歳)で、「これはあくまでも噂ですが、あの人は家庭を省みなかったんで、その罰が当たったんでしょうね。息子さんでも生きていればまた別なんでしょうが、孫の時代となるとね。それに椎名さんも木村さんももうとうの昔に亡くなっているから、相談できる人もいなかったんじゃないかなあ。我々の歳になると知り合いも少なくなっているから淋しいですよ」と、一代で財を成した新宿の貸しビル王は淋しく笑った。老人ホーム「らくらくえん」(町田市)に在住の沢野ひとし氏(94歳)は、「競馬場で死ぬなんて目黒くんらしいねえ。あれ、知らないの? 彼は競馬の本を何冊も書いているんだよ。ペンネームは何と言ったかなあ。藤沢三郎とか四郎とか。あまり売れなかったらしいから、覚えている人もいないだろうけどね。ところでキミ、ぼくはいま新しい文学を書いているんだよ。どこで発表しようか考えているところだから、ぜひにと言うならキミのところでいいよ。あれ、どうして帰るの? まだ話が終わってない!」とテーブルをどんと叩いた。


 これがそのときに書いた死亡記事の全文だが、ようするに私は、どうせ死ぬなら競馬場で死にたいと思っているのである。この考えは今も変わらない。そのときに握りしめている馬券の中身についてまで、そのときは書いているが、あまりセコイ馬券を買ったときには(これが結構少なくない)死にたくない、という考えも変化なし。あいつ、こんな馬券を買ってたのかよ、とは言われたくないのだ。

 では、どういう馬券を握りしめて死にたいのか、ということについて書き出すと長くなるので今回はやめておく。

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