2月24日(月) 吉川英治の後悔

直木賞物語
『直木賞物語』
川口則弘
バジリコ
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吉川 英治,吉川 英明
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 川口則弘『直木賞物語』(バジリコ)がいい。読み始めるとやめられない面白さだ。直木賞の歴史を記述した書でしょ? と思って読むとびっくりする。いや、その歴史を記述するだけでも知らないことだらけなので、実は面白いのだ。特に直木賞がその初期にどういう状態であったか、いやあ知りませんでした。こんなにいい加減な賞だったなんて。しかしそれは書評に書いたので、ここでは別のことについて書きたい。書評では書かなかったことがあるのだ。

 司馬遼太郎が『梟の城』で第四十二回(一九五九年下期)の直木賞を受賞したとき、その授賞式で吉川英治は司馬に近寄り、こう言ったというのだ。
「自分は若いころ、つまらぬものを書きすぎた。あなたも、その轍を踏まないようになさったほうがいいですよ」

 川口則弘『直木賞物語』に出てくる挿話だが、そうか。吉川英治はそう考えていたのか。このくだりで思わず、立ち止まってしまった。

 吉川英治が出世作「剣魔侠菩薩」を書いたのは大正一三年、三二歳のときである。「剣難女難」「坂東侠客陣」「神州天馬侠」を書いたのはその翌年、三三歳。「鳴門秘帖」を大阪毎日新聞に連載したのが三四歳。「若いころ」というのが、まさかそういう作品を書いていた頃、つまりデビューして二、三年のころをさしているわけがない。もう少しあとまでだろう。では、いつまでか。

「貝殻一平」を大阪朝日に書いたのが昭和四年、三七歳のときで、「江戸城心中」の連載を開始したのが昭和五年。「檜山兄弟」が昭和六年。「修羅時雨」「松のや露八」が昭和九年、四二歳。このくらいまでを指しているのではないか。

 というのは、昭和十年、四十三歳のときに「宮本武蔵」の連載を始めているからだ。吉川英治の言う「若いころ」というのは、「宮本武蔵」を書き出すまでではないか。

 この「宮本武蔵」を境に吉川英治が大きく変貌したことはここに書くまでもない。それ以前の吉川英治は、伝奇小説作家であった。ところが「宮本武蔵」を境にして、吉川英治は「新書太閤記」「三国志」「新・平家物語」という歴史小説作家に転じていく。つまり昭和十年の「宮本武蔵」がターニング・ポイントだった。すなわち、吉川英治はその昭和十年以前の作品を「自分は若いころ、つまらぬものを書きすぎた」と後悔していた、ということになる。この作家の履歴と作品を考えれば、そう解釈するしかない。

 ずいぶんショックだ。というのは、昭和十年以前の伝奇小説はいまでも面白いのだ。逆に、昭和十年以降に書かれた「国民小説」は総じて退屈である。その象徴が境目に書かれた「宮本武蔵」(執筆は昭和十年から十四年)で、通して読むと驚く。なぜなら、前半は躍動感にあふれているが、後半は躍動感のかけらもなく説教くさいからだ。一つの長編であるのに、前半と後半がこれほど印象が異なるのも珍しい。大きく変貌する境目に書かれた作品であることを考えなければ、この落差の意味は解けない。

 吉川英治が「若いころ」に書いた伝奇小説の中でも、『貝殻一平』が素晴らしい。『燃える富士』『檜山兄弟』『江戸城心中』と、この時期に書かれた伝奇小説はすべて面白いが、一作選ぶなら『貝殻一平』だ。八五年前に書かれた作品とは思えないほどいま読んでも新鮮である。いま現在書かれている現代のエンターテインメントが八五年後にまで残るかどうかを考えれば、『貝殻一平』の凄さはわかっていただけるだろう。

 にもかかわらず、吉川英治は「つまらぬものを書きすぎた」と後悔していたのである。そうか、そう考えていたのか。すごく複雑な気持ちである。