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11月25日(月)ブコウスキーの競馬

 ブコウスキーが競馬について長々と語っているインタビューがあるので、まずはそこから引く。

「競馬をやるとへとへとになる。英語で暇潰しのことを「時間を殺す」と言うが、各レース間の三十分は「時間の殺戮」そのものだ。そのうえ有金を全部すっちまった日には目も当てられないぜ。しかし家に帰ると思う。「よし、今度こそわかった。こういう仕掛けなんだ」新方式を発明するのだ。が、競馬場に戻ってみると状況が変化してるか、自ら別の賭け方に走るか。せっかくの方式を放棄してしまう。かくて馬の入場。てめえの節操がどの程度のものか、競馬をやれば一目瞭然だ」

「昼日中からサラブレッド競争に出かけて、間を飛ばしてまた夜間の二輪馬車競争に賭けるってこともある」

 このインタビューには「馬券代稼ぎ」というタイトルがつけられている。これは、朗読会ってそんなに嫌なのかいというインタビュアーの質問に対して、次のように答えたところからつけられているのだと思う。

「まるで拷問だよ。でも、競馬代を稼がないとさ。人に朗読してるんじゃくて、馬のために朗読してるようなもんだ」

 日本でブコウスキーが注目され始めたのは90年代の半ばで,『町でいちばんの美女』が新潮社から出たあたりだろう。そのころに出た「ユリイカ」のブコウスキー特集号を見ると、この作家に対して多くの人がくそみそに言っているのが面白い。

 たとえば川本三郎は「飲んだくれで、女好きで、なまけもの。金があれば安酒場で飲み、いい女を見るとたちまちやりたくなる」と書いている。あるいは、柴田元幸は「遺作『パルプ』の愉快さも、同じ徹底的ないい加減さから生まれている。まったく、こんな無責任なミステリー小説のパロディは見たことがない」と書いている。

 もちろん、そういうふうにさんざん腐したあとに、それでも魅力的なこの作家をみなさん熱く語っているのだが。

 とにかく競馬の話が多い。どの本を開いても、競馬が飛び出してくる。「聞いて損はない競馬の話」「もう少し競馬について」(どちらも『町でいちばんの美女』)は最初の1行から最後まで全部競馬の話だ。

 郵便局勤務の体験をもとにわずか19日間で書き上げたデビュー長編『ポスト・オフィス』には、「おれはいつも、本命の馬をやっつけるダークホースを探す」とあり、前走と今走を比較して検討するシーンが出てくる。きちんと予想しているとは意外だった。晩年書かれた『死をポケットに入れて』には、次のような箇所もある。

「競馬場でかすりもしない一日。行きの車の中で、わたしはいつも今日はどの必勝法のお世話になろうかとじっくりと考える。必勝法は六つか七つは持っている」

 もっとも、前記「ユリイカ」所載の対談で、青野聰は興味深いことを語っている。

 そのために資料を調べて、懸命になる。そして外れて帰ってタイプに向かう。「前のレースは汚かった」とか「調教師はどうの」とかよく書くんだけど、〔調べる自分〕は本当は好きじゃないみたいね。

 そりゃそうだろう。そんなに熱心にデータを調べていたら、ブコウスキーのイメージが違ってくる。こういう人には破天荒に賭けて、破天荒に負けてもらいたい。

 ブコウスキーの賭け方は、単勝一本やりだったようだが、それはともかく、おやっと思ったのは、『勝手に生きろ!』の中の次の記述だ。

「ジャンとおれは、ロス・アラミトスについた。土曜だった。そのころ、四分の一マイルレースはまだ目新しかった。十八秒で勝ち負けが決まるのだ。当時の正面観覧席は、ニスも塗ってないただの板が何列も続いているだけのものだった。競馬場に着くと混んできたので、おれたちは席取りに新聞紙を広げて置いておいた。それから、競馬新聞をじっくり見ようとバーへ下りた」

 ここに出てくる「四分の一マイルレース」を知らなかった。四分の一マイルとは、400メートルだ。なんと、たった18秒で決着のつくレースとは、驚いた。もちろんサラブレットではないのだろうが、そんなところにまで出かけていたとは、ブコウスキーはホントに競馬が好きだったのだろう。なんだか途端にこの作家に親近感を抱くのである。

 ちなみに、ブコウスキーは1994年、73歳で亡くなったが、その死の直前に書かれた日記には次のような一節がある。

「今日のわたしは二七五ドルの勝ちだった。わたしは競馬をずいぶん遅くから、三五歳になってから始めた。それから三六年間ずっとやっているわけだが、ざっと見積もってわたしはまだ競馬に対して五〇〇〇ドルの借りがある計算だ。とんとんにして死ぬには、神様にあと八、九年は生かしてもらわなければならないことになる」

 1ドル110円として5000ドルということは、55万である。36年間で55万しか負けてない! なんと1年間に1万5000円しか負けてないのか! この男、ものすごく馬券名人だったのではないか。親近感を感じたばかりだが、途端に嫌いになった。

11月12日(火)岩川隆をもう一度・その2

 近代化をはかって日本中央競馬会がバリアー式をやめ、スターティンクゲートを導入したのは昭和三十六年である。

「あんなもの、大勢で馬をハコの中へ押し込んで、バタン、パッ、と出してやるだけで、ね。びっくり箱みてえなもんだ。これじゃ馬追いの腕なんかいらねえじゃないか。おれはもう、いらねえだろう。そう思ったよ。馬と人のかけひき、なにくそっとも思うし、神経も使う。そこに仕事の生き甲斐もあるというものだが、びっくり箱の手伝いなんか、馬鹿馬鹿しくってやれねえや。だから、さっさとやめちゃったんだ」

 岩川隆のノンフィクションは、取材対象の生の声がいつも聞こえてくるようで、とてもリアルだ。サイちゃんは現役を引退後は、厩舎係などをつとめたあと、昭和四十二年の定年退職後はアルバイトとして、厩務員の共同風呂や騎手調整ルームのボイラーマンの生活を送っている。岩川隆が取材した当時のサイちゃんの生活も、著者はきちんと書き留めている。サイちゃんは午前2時に起床、一合の飯を炊いて、これを神棚仏壇に供え(三年前に細君に先立たれた)、三時半に家を出て、四時半には調整ルームのボイラーのスイッチを入れ、蒸し風呂の掃除を行う。七時五十分には競馬場西口のさきの十字路まで行って登校する小学生たちの交通整理を手がける。ふたたび競馬場に戻ってからは仕事の合間に、気軽にあちこちの雑用を買って出て、一日中めまぐるしく自転車に乗って動きまわり、ひとの顔を見ると「ご苦労さん」と陽気な声を発し、笑いを絶やさない。

 そういうサイちゃんの1日が紹介されると、「馬追い」が遙か昔の歴史上のことではなく、現代に続いている人間の営みの一つという真実が浮かび上がってくる。素晴らしいドキュメントだ。

 矢野幸夫調教師(取材当時は六十一歳)の整体術を描く一編、「東洋医学が効く〔人馬整体〕が走る」もなかなか興味深く、そういう作品がこの書には数多く収められてる。馬事文化賞を受賞した『広く天下の優駿を求む』よりも、この『競馬人間学』のほうが遙かに本としては素晴らしい。

 この『競馬人間学』に匹敵するのは、『ロングショットをもう一丁』だろう。この書には、日本競馬名人列伝、との副題が付けられている。ここでいう「名人」とは、馬追いのサイちゃんのような競馬界の裏方さんたち、陰で競馬を支えている職人たちではなく、巷の競馬名人のこと。よくもまあ、こんな人たちをみつけてきたよなあ、という「名人」が次々に登場する。著者が創作した人間ならば、どんな人物でも作品に登場させられるが、そうではないのだ。たとえば、著者が函館競馬場で会った「万券のカトちゃん」だ。きちんと名前が出てくる。「大野町議会副議長」「自民党渡島連合副支部長」という名刺が紹介されるから、明らかに実在の人物だろう。この人が馬券をずばずば当ててしまうのだ。その現場に遭遇した著者が、「万券のカトちゃん」に秘訣を聞くくだりにこうある。

「牝馬の痩せた(体重減)のはほとんどコないよ」

 おお、そうなのか。そんなこと、考えたことがなかった。
 
しかし、そういう「馬券名人」が次々に登場するわけではない。「みちのくに俳諧仙人あり」という項では、七十九歳の佐藤光五郎さんが紹介されるのだが、この人は競馬場で俳句を詠む。

 醍醐味はスタンドで喰ふ握りめし
 馬券嬢 瞳涼しかり我に福
 余韻あるレースとなりて穴は出ず
 馬券当て行きずり人にも笑みを投ぐ
 勝ち馬をまよいしあげく忘妻に聞く

 そこで著者は次のように書いている。

「心は競馬場に遊んでいる。儲けようなどと思わないで無心に馬を眺めたり、走る姿を追っていると、不思議に、馬券のほうから当たってくださるものだ」

 こういうふうに、さまざまな「名人」が紹介されていくのだが、白眉は「赤い毛糸のベレー帽」という一編だ。競馬で家を建てた人がいる、と聞いて著者が訪ねていくのだが、その人、加藤保隆さん九十歳の人生に圧倒される。

 著者は浦和競馬場に会いに行くのだが、その老人はレースが終わると埼玉新聞本社にレース結果を電話送稿。なんと九十歳の現役記者なのだ。関東大震災の前から弁士として働いていたが、知り合いのイッちゃん(河野一郎)が代議士になったので、その鞄持ちで全国遊説についていく。イッちゃんが政治演説している間は現地の競馬場に「視察」に行き、そのうちに予想紙の発行を思いつく。まだ専門紙の当日版がなかったころの昭和2年である。「加藤の赤新聞」として評判になり、中山東京でも戦争中も売っていたという。最後は女性関係だが、その詳しいことは本書を読まれたい。絶版だが、そう珍しい本でもなので古書店で容易に入手できるだろう。

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