03「美里食肉店」

 沖縄では「豚は鳴き声以外すべて食べる」と言われる。市場を歩いていると、味付けをして真空パックされたチラガー(豚の頭の皮)や、綺麗に下処理をした豚の中身(内臓)があちこちの肉屋さんに並んでいる。そこで一際目を引くのが「美里食肉店」で、店頭には豚の頭が丸ごと置かれている。そこにはサングラスが掛けられており、「ジェニファー」という名前までつけられている。

「よく間違えられるんですけど、この豚肉も売り物なんです」。そう説明してくれたのは「美里食肉店」の美里宗徳さんだ。豚の頭はただ飾られているわけではなく、冷凍された状態から解凍するために店頭に置かれている。サングラスをかけることになったきっかけは、宗徳さんが働き始めて間もない頃にまで遡る。


「当時の市場はまだ観光地になってなかったんですけど、嘉手納基地から遊びにくる外国人は多かったんですよ。ある日、売り物として豚の頭を並べてたら、通りかかった外国人が自分のサングラスを豚にかけて写真を撮ったんです。それを見たときに、『ああ、こうやって写真を撮ってあげればいいんだ』と思って、豚の頭にサングラスを掛けておくようになって。しばらくすると観光のお客さんが多くなって、ちょうどケータイが普及し始めた頃だったんで、写真を撮っていく人が増えましたね」

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 豚の頭に「ジェニファー」と名づけたのも宗徳さんだ。観光客から「この子の名前、何て言うんですか?」と尋ねられた際、咄嗟に思い浮かんだ名前が「ジェニファー」だった。名前をつけてしまったからにはと、新たに豚の頭が入荷されるたび、何代目か数えている。この日、店頭に並んでいたのは5352代目のジェニファーだ。

「美里食肉店」を創業したのは宗徳さんのご両親だ。母親の和子さんは昭和15年、宮古島に生まれた。

「うちのお袋は14歳のときに宮古島から那覇に出てきて、養豚場を経営しながら市場でお肉屋さんをやっている人の手伝いをしていたみたいです。結婚したのをきっかけに自分でお店を初めて、そこから数えても40年以上になりますね。今の建物ができる前に独立して、そのあと公設市場が火事で焼けたときは、新しい市場が完成するまでのあいだサンライズ通りの路上で商売していたみたいです」

 宗徳さんは昭和52年生まれ、四人兄弟の末っ子だ。父親のことが好きだったこともあり、日曜日になると一緒に市場まで"出勤"し、見よう見まねで肉に触れていた。まだ幼かったこともあり、飽きるとあたりで遊んでいたが、当時の市場は怖い場所だという印象が強かったという。

「あの頃は毎日お客さんで溢れていて、そこをすり抜けてチョロチョロ走りまわってたら、『お前、どこの子供か!』と怒鳴られたんです。うちのお袋のお母さんぐらいの世代の人たちがまだ働いていて――あのオバアたち、怖かったあ。公設市場自体も、僕が生まれたときには今の建物になってましたけど、もっと暗い感じだったんですよ。今は床に防水のペンキが塗られていてきれいに見えるけど、昔はタイル張りだったんですよね。灯りも蛍光灯じゃなくて、店の前に裸電球が吊るしてあるだけで、全体的にもっと暗かった。だから『自分の店の前にしか味方はいない』と思ってましたね(笑)。でも、最初は『どこの子供か!』と怒鳴っていたオバアたちも、肉屋の息子だとわかると優しく接してくれました」

 両親は毎日忙しく働いていた。父・忠登さんは午前3時過ぎに仕入れに出かけ、枝肉を担いでお店にやってくる。母の和子さんは、宗徳さんを保育園に預けてから出勤する。お店が忙しかったこともあり、保育園に迎えにきてくれるのはおばあちゃんだった。他の兄弟は祖母の家に寝泊まりして学校に通っていたけれど、宗徳さんは夜遅くに迎えにきてもらって、両親と一緒に寝起きしていた。「僕は寂しがり屋だったから、両親は難儀したと思います」と宗徳さんは振り返る。

「日曜日なんかは親父と一緒に作業場に行って、中身の脂を取ったり豚足を洗ったり、包丁を使わない作業は手伝ってましたね。子供だから途中で飽きちゃうんだけど、でも、楽しかったですよ。沖縄だと、肉の毛の処理をするために表面をバーナーで焼くんです。その途中で肉の端っこを切って、バーナーで焼いて食べさせてくれたことがあって。ちょうどお腹が減った頃を見計らって食べさせてくれたこともあって、今まで食べてきた肉のなかで一番美味しかった。それが今でも忘れられないですね」

 宗徳さんにとって市場は学校みたいな場所で、店のお客さんたちも我が子のように接してくれた。ただ、お店を継ぐことはまったく考えていなかったという。

「小さい頃から肉屋の仕事を見て育っているぶん、他の世界を見てみたいって思いもありましたし、外に出てみたいって気持ちも強かったんです。でも、ウンケー(旧盆)前や正月前になると、あの忙しさが頭から離れないんですよ。昔は半端じゃなく忙しくて、大晦日は夜遅くまでお客さんが買い物にやってきて、片づけをして翌日の準備をして、除夜の鐘は市場で聴いていたぐらい忙しかった。その記憶が残っているから、年取った両親ふたりではやっていけんだろうと思って、毎年手伝いにきてたんです。そのうちに他の仕事が出来なくなって、25歳から本格的に手伝うようになりましたね」

 沖縄では、お祝い事があると豚の中身汁を作るのが定番だ。三枚肉やソーキも、供え物に欠かせない食材である。また、ごぼうを肩ロースの薄切り肉で巻いたごぼう巻きも供え物として一般的だ。もう一つ定番なのがウンケージューシー。これはご先祖様をお迎えするためのジューシー(炊き込みご飯)で、これには出汁がよく出る豚の赤肉を入れる。「中身、三枚肉、ソーキ、肩ロース、赤肉。この五品は、ウンケーのときには絶対に切らしてはいけない品物ですね」。宗徳さんはそう教えてくれた。

「ただ、豚肉だけじゃなくて、牛肉もよく売れてましたよ。特に昔の沖縄だと、和牛ってのはなくて、アメリカからの輸入牛が多かったんです。今は全国どこでも安いステーキ肉が食べられますけど、昔は高級品だったんですよね。でも、沖縄では安くて質のいいステーキ肉が買えるから、本土あてにお中元やお歳暮として贈る人は多かったですね。僕が小さい頃でも注文が多くて、包装を手伝いにきてました。沖縄にも牛汁なんかにして牛肉を食べる文化は昔からありましたし、アメリカだった時代にバーベキュー文化も根づいていたから、誕生日には家庭でステーキを振る舞うことも多かったと思います」

 小さい頃から家業を手伝っていた宗徳さんだが、いざ働き始めてみると苦労することもあった。その一つは言葉の問題だ。

「その時代のお客さんは、うちのお袋と方言でやりとりしてたんです。最初のうちは肉の部位の方言をおぼえるのが大変でしたね。那覇の方言ならわかるんですけど、地域によって言い方が違うから、別の方言で言われたらどこの部位かわからなかった。今はもう、大体わかるようになりましたけどね。あと、今は機械になりましたけど、昔は鉈で骨を切ってたんです。豚足を何本も切っているうちに、『自分の骨が切れるんじゃないかな?』と思うくらい腕がビリビリすることもありました」

 かつては夜の10時過ぎまで買い物客で賑わっていたが、今では地元のお客さんが少なくなったこともあり、7時過ぎには閉店している。公設市場まで買い物にやってくる地元客が減り始める――潮目が変わったきっかけとしてよく語られるのは、「那覇ショッパーズプラザ」(後の「ダイナハ」)の開店である。ダイエーが運営する「那覇ショッパーズプラザ」は、沖縄県外の資本が経営する初の大型ショッピングセンターとして1975年5月にオープンした。

「最初に『ダイナハ』が出来たときは、うちのお袋も心配して、皆で反対したらしいんですけど、そのときは別に影響がなかったみたいです。『ダイナハ』には駐車場がなかったから、それなら慣れてる場所がいいということで、特にお客さんは減らなかった。それよりは『ジャスコ』(那覇店)が出来たときのほうが影響は大きかった気がしますね。あれは那覇空港の近く、基地だった場所が解放地になって、大きい道路が出来て行きやすくなって、大きい駐車場のある『ジャスコ』にお客さんが流れるようになったんです」

「ジャスコ」(那覇店)のオープンは1993年。商店が少なかった時代には県内各地から公設市場界隈に買い物客が詰めかけていたが、スーパーマーケットが増えるにつれて客層が移り変わり、観光客が増えてゆく。そんな時代に店を継いだ宗徳さんが心がけているのは、自分が見て育った商売を引き継いでいくことだという。

「観光でやってきたお客さんに対しても、地元のお客さんに対しても、特に接客は変えないようにしてるんです。初めてやってきたお客さんでも、沖縄の食文化を知ってもらう良い機会になるんじゃないかと思ってジェニファーを並べてるんですけど、たまに嫌がって『怖い』という観光客の方もいるんです。そういう言葉が聴こえてくると、そっと隠したくなるんですけど、『そういうことは言わないで』と言うようにしてます。俺が小さい頃に怒られていたオバアたちだったら、たぶんそう言うと思うんですよね(笑)。それは変えたくないなと思います」

 宗徳さんは今、兄の豪輝さんと一緒に店を切り盛りしている。母の和子さんもまだ健在で、お店に立ち続けている。毎日忙しく働くなかで、楽しみにしているのはお客さんとのやりとりだ。

「地元のお客さんでも観光のお客さんでも、軒先でやりとりするのが楽しみですね。長く働いていると、奇跡の出会いもあるんです。中学生のときに修学旅行で一緒にやってきた友達が、卒業後ははなればなれになって、家族旅行で久しぶりに公設市場に遊びにきて何十年ぶりにここで再会する――そんな偶然もあるんです。たまに『怖い』と言われちゃうこともあるけど、あのときは豚の頭を置いていて良かったなと思いましたね」

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