15「金壺食堂」

 沖縄では台湾を身近に感じる。地図を広げると、台湾は鹿児島より近くにある。市場界隈には台湾茶屋や台湾粥の店など、台湾のお店をちらほら見かける。市場界隈に広がるアーケード街から一歩だけ外に出たところに、台湾素食の店がある。「金壺食堂」である。十品目以上が並ぶバイキングが六〇〇円で食べられるとあり、開店時刻の朝八時から多くのお客さんで賑わっている。テーブルは四つだけなので、お客さんは席を譲りあって相席している。 

「金壺食堂」を切り盛りする川上末雄さんは台湾生まれ。父・正市さんは宮古島出身で、船乗りをしていた。寄港した台湾の基隆で良子さんと出会い、結婚する。

「うちは六人兄弟なんですけど、兄がいて、姉が四人いて、僕 が一番下です。小さいときの思い出で憶えているのは、カモメを捕まえて、籠に入れて飼ってたこと。父親は船乗りなので、出航すると一ヶ月、二ヶ月と留守にしてたんです。最後は船長になっていたので、船が戻ってきたら戻ってきたで、いろんな付き合いで飲みに行かなきゃいけないことが多かったんですよね。それで体調を崩してしまって、それをきっかけに沖縄にくることになったんです」

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 那覇に移り住むと、家族八人で小さなアパートでの生活が始まる。一九六六年生まれの末雄さんは当時五歳。移り住んだ翌年には小学校に通い始めたけれど、まずは日本語から学ばなければならなかった。言葉を話すのも一苦労で、よく学校から抜け出していたのだという。「まだ小さかったから、あの頃はよく『何でここに来たんだろう』と思ってましたね」と末雄さんは振り返る。

 そんな子供達を養うために、母・良子さんは懸命に働いた。先に沖縄に移住していた友人の紹介で、アルバイトをいくつも掛け持ちした。昼は食堂のウェイトレスや民芸品店の売り子として働き、夜は桜坂の飲み屋街に場所を変えて、調理場担当として腕を振るった。

「あの当時は桜坂に飲み屋がたくさんありましたけど、そこに台湾の人が経営している店もあって、その裏方で料理を作ってたみたいです。母はかなり苦労したはずだと思います。朝も昼も晩も働いて、夜中に目を覚ましたときにしか母の顔を見ることはなかったですね。母が料理を作り置きして出かけていくこともありましたけど、いつもお姉ちゃんがご飯を作ってくれてました」

 末雄さんが那覇に移り住んだのは、沖縄が返還される直前のこと。当時は沖縄と台湾のあいだで交易が盛んに行われており、一九七五年には有村産業が那覇と台湾を結ぶ定期便を開設している。那覇を出て、宮古、石垣を中継し、基隆に至る航路だ。

「あの頃はね、船商売がすごかったんですよ。台湾からの船が毎週のように入ってきて、台湾のものを沖縄に持ってくると、バカ売れしてたんです。うちの母と同じくらいの世代の人たちは、平和通りで商売やっている人も多くて、そこで成功してお金持ちになった人もいるみたいですね」

 良子さんはアルバイトとして忙しく働きながら、「いつか自分の店を持ちたい」と夢見ていた。そこで選んだのが台湾素食の店だ。

「父が体調を崩したとき、母が作って食べさせていたのが台湾素食だったんです。台湾素食というのは仏教の精進料理に近いんですけど、肉や魚だけじゃなくて、ネギやニラ、たまねぎやニンニク、ラッキョウといった匂いが強い食べ物を使わない料理なので、すごく体に優しいんですね。父はそれを食べて元気になれたから、皆さんにも台湾素食を食べていただきたいということで、この店を始めたみたいです。最初は母と父がふたりで営業してましたね」

 一九九一年にお店を始めたとき、最初に反応してくれたのは台湾人のお客さんだ。「金壺食堂」を訪れれば、郷里の味が食べられる上に、台湾から輸入された食材も購入することができる。口コミで評判が広がり、台湾人のお客さんで賑わうようになると、次第に日本人のお客さんも増えてゆく。インターネットが普及すると、ベジタリアンでも食べられるお店を検索してやってくる観光客も増えた。ただ、母が始めた「金壺食堂」を継ぐつもりはなかったのだと、末雄さんはそう振り返る。

「高校を卒業するとすぐに東京に出て、最初は自動車メーカーに就職したんです。でも、毎日決まった時間に出勤する仕事が物足りなくなって、数年で会社を辞めたんですよね。そのあとはボーイをやったり、職を転々としてました。あの頃の東京はバブルの真っ盛りで、お金の使い方がド派手な人が多かった。そうやって遊んで過ごしてましたけど、このままだと体を壊すなと思って、沖縄に帰ってきたんです」

 沖縄で選んだ仕事は料理人だ。三越百貨店の地下にある寿司屋で修行したのち、大阪のフランチャイズ店で働いた。すでに「金壺食堂」はオープンしていたけれど、そちらは姉が手伝っていたこともあり、料理人になってからも店を継ぐつもりはなかったという。転機となったのは、父が再び体調を崩したこと。父を見舞いに沖縄に戻り、家族と話し合って、末雄さんも母や姉と「金壺食堂」を切り盛りしていく道を選んだ。初めて母と一緒に働いてみると、その仕事ぶりに驚かされたという。

「母は『誰かのために』という気持ちでずっと働いてきた人だから、ほとんど休みを取らなかったんです。その一生懸命さに、ついていけなかったところも正直ありました。お店をやっていると、電気代やガス代がどれぐらいかかるか、やっぱりコストを計算しますよね。当時からバイキングをやってましたけど、何時までと時間を区切らずにやってたんですよ。閉店間際にお客さんが入ってきたら、母はひとりのお客さんのために料理を作り直してました。ひとりであってもお客さんはお客さんですけど、それをやっていたらきりがないんじゃないかと。母の感覚と僕の感覚が合わなくて、しょっちゅう喧嘩してましたね。一度ここを辞めて、ラーメン屋をやってたこともあるんですけど、母が高齢になって『店をやめる』と言ったときにまた戻ってきたんです」

 現在「金壺食堂」で提供しているのは、母から引き継いだ料理だ。ただ、「やっぱり母には敵わないですね」と末雄さんは笑う。良子さんが調理する姿を観察して、同じように作ってみても、母の味には勝てないのだという。

「母が調味料をスプーン二杯入れるとわかっていても、僕が二杯入れると味が違うんですよね。母の料理はレシピが決まっているわけじゃなくて、食材を見ながら匙加減を変えるんです。バイキングに出す料理も、今は十五種類くらいですけど、母はもっと品数を出してました。『金壺食堂』が今日まで続いてきたのは、母の努力の賜物です。いろんな人に頭を下げて、いろんな人に良くしてあげて。それで人が人を呼んで、今もお客さんが食べにきてくれるんだと思います」

「金壺食堂」で人気なのは、ちまき。具材は大豆にしいたけ、それに"お肉"がたっぷり入っている。頬張ると口の中にジューシーな香りが広がるけれど、これは本物のお肉ではなく、大豆から作った"お肉"である。当初はもち米だけを使った普通のちまきを出していたけれど、北海道のお客さんからもらった黒米を混ぜて作ってみたところ、これが評判を呼んだ。今では看板メニューの一つとなり、テレビで紹介される機会も増えた。「金壺食堂のちまきを取り扱いたい」と業者から依頼の電話がかかってくることも多いけれど、すべて断っているのだという。

「八時に店を開けようと思うと、五時には店に来ないと間に合わないんです。ちまきの注文がたくさん入ってる日だと、四時には仕事を始めますね。うちは八時に店を開けて、バイキングは二時半まで、お店は四時で閉店なんです。『なんでそんなに早く閉めるの』と言われることもあるんですけど、店を閉めたあとも片づけや仕込みがあるので、この時間が限界なんです。ちまきも、たくさん作ればそれだけ儲かるかもしれませんけど、寝る時間を削らなきゃいけなくなる。うちの姉と話し合って、一日一日生活できればいいじゃないかと、欲のない程度に続けています」

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 仕事を終えて家に帰ると、ゆっくり音楽を聴いて過ごす。「僕も五十三歳になるので、最近は静かな曲を聴くことが増えました」と末雄さんは語る。お気に入りは松山千春の「大空と大地の中で」。良子さんは八十二歳まで働き続けたので、少しでも母に近づけるように、あと三十年店を続けることが目標だという。「母には勝てないと思いますけど、でも、お客さんが『おいしかった、ありがとう』と言ってくれる、その言葉を一日でも長く聞いていたいですね」

 取材を終えた翌日、末雄さんは僕をバーへ連れて行ってくれた。そこはカラオケの歌える店だった。末雄さんの歌う「大空と大地の中で」を聴きながら、訪れたことのない港町の風景を想像する。