13「もちのやまや」

 国際通りから公設市場へと続く市場本通りには、わずか五十メートルの距離にお餅屋さんとお菓子屋さんが五軒も並んでいる。午後のティータイムのためのおやつ――ではなく、基本的にはお供え物だ。

「そこにカレンダーがあるでしょう」。ここで「もちのやまや」を営んでいる兼島久子さんが指差すほうに目をやると、「もちと年中行事」と書かれた紙が貼られている。

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「沖縄では、餅を使う行事が一年中あるんです。内地はお正月に飾るだけでしょうけど、こっちはほぼ毎月あって、お供えする餅も行事ごとに違うんです。旧正月にはナントウという餅を供えたり、七夕にはお墓の掃除をして、今年もまたお盆がきますので帰ってきてくださいねと白のあん餅を供えたり、お盆がくれば今度はお仏壇にいろんな餅を供えたりね」

 お餅屋さんを創業したのは、久子さんのご両親だ。父・津嘉山朝徳さんは明治四十年、与那原で生まれた。三人兄弟で家計が厳しかったこともあり、尋常小学校を卒業すると丁稚奉公に出た。そのお店というのが泊にあったお菓子屋さんで、伝統的な沖縄の菓子づくりを学んだ。ただ、そこから菓子一筋に行きたわけではなく、よりよい生活を求めて朝徳さんは新天地を目指す。

「お菓子屋さんで丁稚奉公したあと、父は大阪に渡って、鉄工所に勤めていたそうです。そこで母と出会ったみたいです。私の母はカメという名前で、那覇で生まれ育ったんですけど、父と同じように大阪に渡り、紡績関係の工場で働いてました。そのまま大阪で終戦を迎えて、昭和二十一年頃に引き揚げてきて。ほら、早く帰っておかないと、沖縄はアメリカの領土になっていたから、パスポートがないと帰れなくなるでしょう」

 戦争が終わると、日本はGHQに占領された。昭和二十一年、GHQは北緯三十度以南の南西諸島を行政分離すると発表し、アメリカが長期にわたって沖縄を統治する方針が示された。その前にと、朝徳さんとカメさん夫婦は三人の子を連れて沖縄に引き揚げてきた。そこで選んだ仕事がお菓子屋さんだった。

「最初の頃は、伝統的なお菓子がメインだったんですよ。壺屋に工場があって、そこで作った餅をここに持ってきて販売する。この場所はもともと川が流れていたんですよ。すごく小さい川だったから、ちょっと雨が降れば氾濫するような川で、そこに木の板をかけてお菓子を売ってたみたいです。あんまりにも川が氾濫するものだから、川の幅を広げてセメントで蓋をして、そこで商売している人たちがそれぞれ出資して建てたのがこの水上店舗なんです。だから、今もこの建物の下には川が流れてますよ」

 最初は様々なお菓子を扱っていたけれど、他にもお菓子屋さんがあるので、ある時期から餅を中心的に扱う店となり、「もちのやまや」と看板を出すようになった。「やまや」の由来は、苗字である津嘉山の「山」だ。

「今は買った餅をお供えする人が多いですけど、昔はそれぞれの家庭で作っていたんですよ。旧盆には実家に親戚一同が集まって、全部で四十名以上が集まる家もあると思います。そこで皆で料理をして、お供え物を作り、その日にお仏壇から下ろして皆で食べる。そうやってお供え物を作るときに、人によって得意な料理があるでしょう。それぞれ得意なものを分担して作るんですけど、私の母方の祖母は餅を作るのが上手だったらしいんです。その味を引き継いで、店で出すようになりました」

 沖縄ではお餅の作り方も違っている。餅米を水と一緒に石臼で挽き、木綿の袋に入れ、重石を乗せて一晩おき、それを丸めて蒸す。水挽きと呼ばれる製法だ。沖縄は蒸し暑く、普通に餅をつくと夏場はすぐにカビが生えるので、水挽きするのだという。

「内地みたいに焼いて食べるんだったら平気かもしれませんけど、沖縄で餅はお供え物ですからね」。久子さんはそう話してくれたけれど、おやつにと買われていくお餅もあるそうだ。その一つはカーサムーチーだ。

「カーサムーチーというのは、沖縄で昔から食べられてきたお餅です。旧暦の十二月八日はムーチーの日で、子供が元気に育つようにと餅を作るんですよ。今は紅芋やキビ味も作ってますけど、昔はプレーンと黒糖の二つだけでした。プレーンのほうはまったく甘くなくて、餅を包んでいる月桃(カーサ)の葉の匂いが強いですね。子供は二歳ぐらいからカーサムーチーを食べるので、沖縄でこれを知らない人はいませんよ。昔はそれぞれの家庭で作ってましたけど、蒸すと月桃の強い香りが出るので、近所を歩いていると『ああ、この家はカーサムーチー作ってる』とすぐにわかります。その匂いを嗅ぐと、ああ、もうそういう時期なんだなと思うんです」

 沖縄県民には海外に移住した人も多く、故郷に里帰りした人が「懐かしい」と言ってお土産に買って帰ることもある。それと同じように、ナントウというお餅もお土産として人気だ。こちらは餅粉に味噌や香辛料を混ぜ、甘辛い味に仕立てたお餅。「やまや」の包装紙には、「本土へのおみやげに 沖縄名物 ナントウ餅」と書かれている。

「ナントウは真空パックしたものも売っているので、お土産に買っていかれる方も多いですよ。旅慣れてる人だとそのまま持って変えられますけど、税関で色々質問されて大変みたいです。カーサムーチーもナントウも、小さい頃から食べ慣れてるから、懐かしがるお客さんは多いです。沖縄はね、最近までアメリカだったでしょう。今もそれに近いようなものだけど、その影響で沖縄にはアメリカ製のお菓子が昔からあったんですよ。ただ、そういうお菓子は高いから、普通の子供は食べることができなくて、カーサムーチーやナントウを食べるのが子供の楽しみだったんです」

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 久子さんは一九五二年、八人兄妹の末っ子として生まれた。現在は四男の廣さんが経営者として工場を取り仕切り、久子さんは店舗で販売を担当している。

「お店の仕事は、中学生ぐらいから手伝ってましたよ。家業だから、しょうがないですよね。子供じゃなくて労働力だから、やらないというのはなかったです。十代の頃はね、お客さんに教えられてました。お餅の詰め方一つとっても、『あんた、こんなして詰めたらいけないよ』と。でも、最近は買いにくるお客さんのほうが若くなってます。三十代くらいのお嫁さんたちが、『今度こういうことがあるんですけど、どのお餅をどれだけ詰めればいいですか?』と聞いてくるわけ。沖縄はお仏壇の行事が多いから、だから沖縄の長男は嫁のなりてがいないと言われるんです。まずお仏壇が優先で、それを守っていかなきゃいけない。母親も、自分が苦労したもんだから、長男のところには嫁に行かせたがらないんですよ。でも、最近はずいぶん簡素化して、スーパーでまとめたものが売ってますけどね。それでもうちに買いにきてくれるお客さんとやりとりするのが、こうしてお店をやっているなかでの楽しみですね」

 一年の中でとりわけ忙しいのは旧盆だ。旧盆三日目のウークイの日、「やまや」の前には、お客さんがごった返していた。お店の前だけでは捌き切れず、その日が定休日のお店の前も借りて餅を販売していた。ひっきりなしにお客さんが訪れて、慌ただしく働きながらも、久子さんは笑顔でお客さんと言葉を交わしていた。