08「ウタキヌメー」

 第一牧志公設市場には、かまぼこ屋さんが数軒ある。どうしてこんなにかまぼこ屋さんがあるのだろう?――その疑問は旧盆のときに解明された。沖縄では旧盆は一大行事だ。各家庭で重箱を作り、ご先祖様をお迎えする。重箱に欠かせない食材の一つがかまぼこなのである。

「私が働き始めた頃はね、今の10倍以上は売れてましたよ」。「ウタキヌメー」の上原節子さんはそう振り返る。「今だから言うけど、旧盆のときはね、1ヶ月前から準備を始めて冷凍しておくわけ。そうしないと追いつかなかったのよ。販売するのにも、ものすごい人だかりで、こっちが4、5名いても足りないぐらい。沖縄の人は並ばんから、あっちこっちから『自分が先よ!』と言われて、大変だったね。それに比べると、今は微々たるもんよ」

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 節子さんは1946年、久米島に生まれた。久米島は那覇から90キロほど離れているが、小さい頃から那覇を訪れる機会は少なくなかった。

「姉が豊見城に嫁いでいたものだから、小学生の頃は、夏休みになると一人で船に乗ってよく来てましたよ。自分で行きたいと言ったのか、父親に行かしてもらってたのかは記憶にないけど、甘やかされていたんだと思う。あのときはね、豚も一緒に船に乗っていた。ブローカーの人が久米島で豚を買って、船に乗せて本当に行くわけ。自分たちはそれが普通だけど、結婚した当時、うちの主人はそれを見て驚いてたね」

 節子さんが結婚したのは、上原堅一さん。堅一さんは糸満出身で、かまぼこ屋を創業したのは堅一さんのご両親だ。

「最初は家内工業じゃないけど、おうちでかまぼこを作って、軒先でそれを売っていたわけ。そのおうちというのが、御嶽(うたき)の前にあったのよ。御嶽というのは、集落の人がお祈りをする拝所のことね。御嶽の前(メー)にあるから、『ウタキヌメー』って名前になったみたいね。どうしてかまぼこ屋を始めたのかわからないけど、あの頃のかまぼこ屋はものすごく儲りよったらしいよ」

 しばらく糸満で店を営んでいたが、堅一さんのご両親は終戦後に那覇に移り住み、公設市場でかまぼこ屋さんを再開する。節子さんは22歳で堅一さんと結婚し、店を手伝うようになった。

「自分が来た頃は従業員も2、3名いたけど、人手が足りないから自分も手伝ってね。ここから50メートルくらい離れた場所に工場があって、そこでかまぼこを作るわけ。朝の3時ぐらいから工場でかまぼこを作り始めて、出来上がったものを市場に運んできて店に並べる。とにかく忙しくて、子供ができたとわかってからも働いてたよ。午前中は仕事をして、午後は休んで病院へ行く。産んだあとは1ヶ月産休を取ったけど、その期間も朝だけは仕事をしてたね。あの頃の嫁としては、義理の親のことが畏れ多いわけよ。こっちは田舎から出てきていることもあって、認められたいっていう一心でね」

 それほど忙しかったのは、かまぼこが人気の食材だからだ。お祝いごとがあれば、紅白のかまぼこが振舞われる。他の地域だと「紅」色のかまぼこはピンクだが、沖縄では本当に真っ赤な色をしている。また、魚のすり身と一緒に卵を練りこんだ「カステラかまぼこ」もお祝いごとに欠かせない存在だ。お祝いごとだけでなく、かまぼこは日常的に食卓にのぼる。ただし沖縄のかまぼこは蒸すだけではなく揚げてあり、さつま揚げのルーツとも言われている。「かまぼこを入れないと味が出ないから、いろんな料理に使われてましたよ」と節子さんは言う。汁物にも炒め物にも、かまぼこは欠かせない食材だったのだ。

 忙しく働いているあいだ、気がかりだったのは子供のことだ。仕事は早朝から始まり、日が暮れるまで市場でかまぼこを売る。夫婦が交代で子守をしていたけれど、それでも世話をできる時間は限られていた。

「子供たちに可哀想なことをしたなと、今でも思うことがあるわけ。一番大きいのは、お弁当。幼稚園の頃に、週に一回はお弁当の日があったんだけど、手作りする時間がなくて、市販のおかずを買ってきて持たせてた。あれが一番申し訳なかったね。でも皆、良い子に育ってくれて、それだけが救いだね」

 かまぼこ屋さんの仕事は重労働だ。魚のすり身を大量に抱えて鍋に入れ、出来上がった熱々のかまぼこを取り出す。その繰り返しが祟り、節子さんは3年前に腰を痛めてしまった。病院へ行くと脊柱管狭窄症と診断され、手術を受けた。かまぼこ屋さんを続けるのは難しく、現在は土産物を並べて売っている。

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「手術をしたときは60代だったから、引退するにはまだ早いかなと思って、土産物を売る店に変えたんです。売れても売れなくても、お客さんや隣近所と会話するだけでも楽しいからね。でも、来年3月にはもう辞めます。今の市場が取り壊されて、3年間は仮設市場で営業して、2022年に新しい市場が出来るというんだけど、その頃にはもう76歳になってるわけ。今の市場を壊したら、私はもう引退。来年からどうしようかなということを、今のうちから考えてる。趣味でもあればいいけど、杖をついて三本足になってるから、ちょっと気が重くなるね」

 節子さんの楽しみは、テレビを観ること。「ウタキヌメー」の帳場にはテレビが置かれていて、隣近所の店主たちと一緒にテレビを眺めることもある。

「よく観るのは、スポーツ中継だね。自分はスポーツ出来ないけど、観るのは好き。野球も観るし、相撲も観るし、ルールはあんまりわからんけどサッカーも観る。今のテレビは若者向けが多いけど、スポーツ中継とドラマは面白いね。琉球朝日放送で、午前と午後にサスペンスがあるさ。あれを観るのが楽しみ。一番好きなのは『科捜研の女』だね」

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 公設市場を歩くとき、話を聞かせてもらったお店には挨拶するようにしている。ある日、「ウタキヌメー」の前を通りかかると、節子さんはテレビに見入っていた。それはちょうどサスペンスドラマが放送されている時間帯だった。挨拶はあとですることにして、邪魔をしないよう黙って通り過ぎる。