10「コーヒースタンド小嶺」

 十三番出入り口のそばに、小さなスタンドがある。「コーヒースタンド小嶺」だ。ターコイズブルーの壁も、ステンレス製のカウンターも、いつもぴかぴかだ。お店は午後からの営業だが、店主の小嶺勇さんは毎朝七時には一度出勤し、隅々まで掃除をする。店を仕切る硝子はいつも透き通っている。

「親父が毎朝掃除してたから、自分もその跡を継いで掃除してるのよ。親父がやってなかったら、自分はやってなかったはずよ。今は市場全体を清掃する方がいるけど、それでも毎日きれいに拭いて、店の前も掃除するようにしてるわけ」

 スタンドを始めたのは、勇さんの父・小嶺重秀さん。明治四十四年生まれの重秀さんが「コーヒースタンド小嶺」を創業したのは、終戦直後のことだ。

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「親父が店を始めたのは、まだ公設市場ができる前で、最初は道端でジュースを売っていたみたいです。聞いた話だと、このあたりに同業者がたくさんいたみたいだね。あの頃って自動販売機もないし、スーパーもなかった時代だから、何軒あっても足りなかったんじゃないかね。それが一軒消え、二軒消えと少なくなったけど、この店は道端でジュースを売っていたのが始まりみたいです」

 勇さんは一九五四年生まれ。物心がついたときにはもう父はスタンドを始めていたけれど、幼いうちは父が何の仕事をやっているのか知らされずに育った。

「小さい頃に、一度聞いたことがあるわけ。親父はどんな仕事してるかって。朝起きるともう親父はいなくて、自分が寝るときにもまだ帰ってこないのよ。『親父はどんな顔してたかな』と思ったときもあるけど、何の仕事をしてるか教えてくれなかった。なぜかって言うと、こういう商売やっていると知ったら、友達を連れて遊びにきて、採算が取れなくなると思ったみたい。コーヒースタンドをやっているとわかったのは、中学に上がってからだね」

 七人兄弟の四番目だったこともあり、自分がいつか店を継ぐとは考えていなかった。学生時代に勇さんがあこがれたのは車のデザイナーだ。日産のフェアレディを見て車好きになった勇さんは、工業高校の自動車科を卒業すると、東京のディーラーに就職する。

「本土へ行くとき、やっぱり身近なものを持っていくわけ。就職してからは寮生活だったんだけど、寮の子供に、学生の頃から当たり前に食べていたリグレーのガムなんかをあげるとすごい喜んでね。本土では手に入らないもんだから、後で寮のお母さんに『もっとないかと子供がねだる』と請求されたりして。ポーク缶なんかも、今は本土でもざらに売ってるみたいだけど、あの当時は珍しかったわけ。同じ寮の人が食べてみたいと言うので一つ分けてあげたら、『沖縄の人はこんなおいしいのを食べてるのか』と感動してね。煙草にしてもウィスキーにしても、軍からの横流しというのかね、沖縄では外国製のが売られていたのよ。まともに買うよりすごく安いし、専売公社の国産の煙草より物はいいし、全然違ったわけ。そんな時代だったよ」

 寮生活を送りながら自動車整備士として働いていた勇さんだったが、仕事を辞めて沖縄に帰る決断をする。

「自分が働き始めた頃は自動車を整備するのは職人技で、エンジンのキャブレーターなんかも、こんな小さいネジもバラバラに分解して組みつけてたよ。自分が仕事を始めた頃はそんなだったけど、何年か働くうちにコンピューター化されて、誰でも出来る仕事になって、エンジンも触れなくなった。クルマも大量生産の時代になって、新しく買い換えたほうが安くなってね。それでやる気をなくして、見切りをつけて沖縄に帰ったわけ。それが二十三歳くらいのことだね」

 沖縄に帰郷した勇さんだったが、特に仕事のあてがあるわけではなかった。久しぶりの実家でのんびり過ごしていると、「お父さんのところへ行って、コップ洗うのでも手伝ってきなさい」と母に命じられ、勇さんは公設市場に足を運んだ。働く父の姿を目にするのは、その日が初めてだった。

「学校に行く前に荷物を届けに行ったことはあるけど、店を開けてる時間に行くのは初めてだったわけ。当時の市場はものすごくお客さんが多くて、自分が手伝わないと、親父ひとりではとてもやっていけないんじゃないかと思ってね。それで親父と一緒に店をやるようになったんだけど、お客さんを相手にする仕事は初めてなわけさ。自分は棒立ちで、店でぼおっとして。これに我慢が出来なくなって、『俺にはもう出来ないよ』と親父に伝えて、アルバイトを探したこともあったんだけど、あるとき幼馴染に言われたのよ。『今の仕事は地味かもしれないけど、君に向いてるよ』って。その言葉を聞いて、モヤモヤした気持ちが吹っ飛んでね。それから方向を掴んで、今日まで続けてるわけ」

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 何より苦労したのは味つけだ。「コーヒースタンド小嶺」で提供するアイスコーヒーと冷やしレモンは、冷蔵庫ではなく、大きな容器に氷を入れて冷やしている。氷が溶けるにつれて味が薄くなるので、一日に何度も味を確かめる。「この味は匙で測るわけにもいかないから、こればっかりは難しかったね」と勇さんは振り返る。

「親父と一緒にやっていた頃は、軍から流れてきたコーヒーを使ってたわけ。あれは野戦用だったのかもしれないけど、水でもすぐ溶けて、香りもすごく良かった。冷やしレモンだと、アメリカ産のサンキスト。三十代になって、自分がひとりで店をやるようになってからもサンキストを使ってたんだけど、農薬が問題になったりしてね。何か良いアイディアはないかと考えていたときに、シークヮーサーを思いついたわけ」

 今では沖縄の特産品として知られるシークヮーサーだが、かつては特に見向きもされず、道に落ちていても誰も拾わなかったという。ただ、何気なく口にしたシークヮーサーの実の香りに惹かれて、「これをジュースに出来ないか」と研究を始めた。

「その当時はシークヮーサーにどんな栄養分があるかもわからずに、ただ香りが良いってことでジュースに出来ないかと考え始めたわけ。すごい香りで、頭がすっからかんになる。ただ、商品化するにしても、どこで仕入れたらいいかもわからなくてね。家の庭で趣味程度に育てている人は多いけど、業務用となるとわからんわけさ。でも、たまたま新聞を読んだら、やんばるの大宜味村のお祭りでシークヮーサーを振る舞うと書かれてあった。すぐに大宜味村の役場に電話をすると、活性化センターという場所を教えてもらって――今で言う道の駅みたいなところだね――最初はそんなに大量には買えなくて、五〇キロだけ買ったのよ。『こんなにたくさん、何に使うの?』と言われて、お土産にパイナップルまで持たされたのを覚えてるね」

 仕入れ先は確保したものの、すぐに商品にできたわけではなかった。一年中使えるようにと冷凍すると、実が真っ黒に焼けてしまう。果汁に絞って保存するにも、当時はまだペットボトルが普及していなかった時代だ。そもそもシークヮーサーを絞ることも容易ではなく、最初のうちはグレープフルーツ用のジューサーを利用していたが、しばらく使っているうちに壊れてしまう。改良に改良を重ね、今は特製のジューサーで絞っている。

「シークヮーサーが世間に知られるようになって、絞った果汁を売ってたりもするんだけど、小さなペットボトルで五百円するわけ。これではとても商売にならなくて、自分で絞ったやつを使ってる。シークヮーサーを使っているのに、何で名前は冷やしレモンのままなんだと聞かれることもあるけど、シークヮーサーって、正式にはヒラミレモンという名前なわけよ。だからあえて変えずに、冷やしレモンのまま出してますね」

 何より驚かされるのは、「コーヒースタンド小嶺」のメニューはどれも一杯百二十円と格安なこと。十数年前は一杯百円だったけれど、仕入れ値が高騰したことで、値上げを決断したのだという。それでも二十円しか値上げしなかったのは、何十年と通ってくれるお客さんがいるからだ。

 お客さんに飲み物を提供すると、勇さんは必ず「ゆっくりしていってね」と言葉を添える。この言葉もまた、父から引き継いだものだ。

「一緒に働いているうちに、やっぱり親父の癖が移るのよ。親父はもう二十年前に亡くなったけど、すごく丁寧に接客していて、いつもお客さんに『ゆっくりしてってね』と声をかけていた。その姿が印象に残ってるから、今も必ず『ゆっくりしていってね』と言うようにしてるわけ」

 店の前には長椅子が置かれている。お客さんがくつろいで過ごせるようにと、勇さんが置いたものだ。買い物帰りに立ち寄ったお客さんたちは、大事そうに冷やしレモンを飲んで帰途につく。

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