10月12日(木)
『沢野字の謎』事前注文〆切日。朝から地方の書店さんに電話で営業をかける。営業マンがひとりだと、どうしても地方へ出張することができず、顔をつき合わせての営業ができない。まったく会ったことのない担当者の方々に、いきなり電話をすることにかなり抵抗を感じるが、本が入らないことを考えると致し方ない。いつか、地方出張したい。
その後は、ある方面を営業。今回はあえて匿名書店。
この書店さんは、小さな町の書店さんで私鉄沿線の駅前立地。ビルの2F2区画を借りて営業していた。店長さんのこだわりが棚に反映されていて、見る人が見れば、かなりうれしい気持ちになれるお店だったと思う。しかし、数年前から売れ行きが下降し、どうにか起死回生をと、昨年の暮れに2Fの2区画を1区画に縮小し、それに変えて1Fの1区画借りることになった。1Fは雑誌、2Fは単行本。言葉にするのが難しいが、変則2フロアーの営業。店長のHさんは、ヒゲを生やした坊主頭、いつも穏やかな表情で相手をしてくれるとても優しい方である。
いつ頃だっただろうか…。
Hさんのお店を訪問し、話題になっている本の話をしていた。確か東野圭吾の『秘密』の話だった。お互い読み終わったすぐ後だったため、妙に盛り上がり、あの結末についての解釈を互いに話し合っていた。するとHさんが、
「うちの娘がさ、全然本なんか読まなかったのに、どこかで噂を聞いていたのか、オレの本棚から『秘密』を持っていったんだ。どうしたのかと思ったけど、気づかないふりをして観察していたんだよ。そしたら1日中静かに集中して読んでいて、読み終わったら感動しているんだよね。びっくりしたよ。今まで散々、本を読めって言ってきたのに、全然読まなくてさあ。それが、今度は、本を返しに来ながら『お父さん、これ面白かったよ。他にない?』だって。」
元々優しい顔立ちのHさんが一段と顔をくずしていた。
「それで、Hさん、どうしたんですか?」
「うん、あんまり余計なこと言うのも嫌だからさあ、『秘密』と同じような感じの本を何点か渡したよ。今、夢中になって読んでいるみたいだよ。読ませたい本はいっぱいあるけど、それをそのまま読ますのも、難しいよね。でも娘と本の話ができるなんてさ……。」
例え小さな幸せと言われようと、何事にも変えられない幸せ。Hさんはうれしそうに平積みしてあった『秘密』を触っていたのが印象的だった。
そんなHさんのお店が、ただいま非常に苦しい状態らしい。毎月取次店からの請求にビクビクし、どうにかこうにか図書館からの発注でやりくりしているようだ。どこの町の書店さんも苦しい。小さなお店は、欲しい本(売れる本)をいくら注文してもほとんど入ってこないのが実状。出版社は返品を恐れて、目の届かない小さなお店には本を出荷しないようにしている感がある。それに不況で本の刷り部数自体が減っているため、小さなお店に回る分まで在庫がないようだ。悪循環は続き、本が入らないから、お客さんも減り、売上が少ないから、注文も出せない。そんな状況が続いている。こだわりの棚すら作れない。
今日、訪問した際のHさんの最後の言葉
「あと何ヶ月保つかわからないよ、どうにかやっていきたいんだよなあ。」
僕は、お店をあとにして、各駅電車に乗った。椅子に座りながら、悔しい気持ちでいっぱいになった。あの優しくて本が大好きなHさんのお店があと数ヶ月でつぶれるかもしれない。僕に何かできることはないのか。例えば……。でも小さな出版社の営業マンに出来ることなんてたかがしれている。いや、人が人のためにできることなんて本当はないのかもしれない。結局、僕には何もできない、その現実に打ちのめされた気分だった。