第2回 隠岐島海士町の子守唄

 2013年春、私は隠岐島で開かれた音つなぎというイベントで隠岐神社で演奏した。その演奏を聴いてくれていた人が、個人でその翌春ワンマンライブを開いてくれた。それも夜の図書館ライブ。ガラス越しに広がるのは一面の田んぼ、かえるの声を聞きながら、夕まぐれの濃紺の時分に始められたライブ。演奏が終わるとき、ピアノが弱まり、余韻を残すのと交代でピアノの音に消されていたかえるたちの声が湧き上がるように浮かび上がってくる。極上の空間だった。
 隠岐島は4つの島からなる。一つが隠岐本島、西ノ島、知夫里島、そして海士町のある中ノ島だ。島根から船で3時間。移動に時間がかかることもあって、前日入りしていた。用意してもらった宿のロビーにおいてある、チラシや資料などに目を通していたとき、ふと、手書きでホチキス止めされた小冊子が目に入った。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と海士町とのつながりについて書かれた小冊子だった。
 ハーンは海士町と縁が深い。隠岐諸島の中でもとりわけ海士町を気に入って長く逗留したといわれる。現在の海士町は隠岐島の中でも若者が元気で、移住組も多く、観光客誘致にも成功している町だ。何しろデザイン的にもヨーロッパの香りのするようなしゃれた地域通貨まであって、その名も「ハーン」なのだ。移住して役場に勤めた若者が、半年ばかり「ハーン」で給料が支払われたと苦笑していたが、そんな進取の気性の感じられるのが海士町の現在だ。
 そんな、ラフカディオ・ハーンについて書かれた冊子を宿で見つけてめくっていると、手書きの楽譜がいくつも書かれている。それが「海士町の子守唄」だった。ハーンは滞在中、海士町のおばあさんたちをたずね、子守唄を採集したのだ。そのメロディについても、文章の中で激賞している。しかし、肝心の楽譜をハーンは残さなかった。このままでは、ハーンの愛した子守唄の伝承が途絶えてしまう、そう80年ころに危惧を抱いた郷土史家によってまとめられたのが、この手書きの小冊子だった。ライブの前日にこれを発見した私は、宿にアップライトのピアノがあったのをいいことに、「大野キワさん」バージョン、「上野品子さん」バージョンといった具合に複数のおばあさんから採譜されたいくつもの楽譜を前に、自分のお気に入りを見つけて練習し、翌日のライブで演奏することにしたのだ。

ねんねしなねんねしなねんねしな
ねのこは憎い子憎い子よ
寝た子はかわいこかわいこよ
ねんねしなねんねしなねんねしな

ねんねこお山の兎の子
なぜまたお耳が長いやら
お母さんのお腹にいるときに
びわの葉笹の葉食べたそうな
それでお耳が長いそな
それでお耳が長いそうな

 まず、歌詞の愛らしさに口元が緩む。兎の耳はなぜ長い、という素朴な疑問を前に、海士町の人々は、笹の葉、びわの葉を連想したのだ。前半はいわゆる「寝させ歌」だが、後半はわらべ歌に近いのびのびした雰囲気が広がる。しかしハーンは、「伯耆から隠岐へ」という文章の中でこの子守唄について次のような感想を述べている。

 その節がとくに美はしく(ママ)また哀調を帯びてゐて、
 出雲や日本の他の地方で、同じ言葉で歌ふ節とは全く異つてゐた。

 この短い、しかし熱のこもった感想からまずわかることは、この兎の耳をモチーフにした子守唄が、「出雲や日本の他の地方」に存在するということである。この兎の耳にまつわる豊かなイマジネーションは海士町一箇所に限られたものではなかったのだ。南方熊楠も「十二支考」の中で「吾輩幼時和歌山で小児を睡(ねむ)らせる唄(うた)にかちかち山の兎は笹(ささ)の葉を食う故耳が長いというた」と回想している。調べてみると出てくる出てくる、「兎の耳が長い理由」を歌う子守唄は全国に分布していた。図書館ライブで「海士の子守唄」を披露して帰京すると早速、企画してくれたAさんからも連絡が入った。どうやら似たような歌は文京区にもあるらしい、というのだ。びっくりしながら、「東京のわらべ歌」のページを繰ると、果たして文京区本郷の子守唄が載っていた。

ねんねんころりよおころりよ
ねんねんこやまのこうさぎは

なぜにお耳がお長いね
かあちゃんのポンポにいたときに

しいのみかやのみたべたゆえ 
それでお耳がお長いよ
ぼうやはよいこだねんねしな

 こちらは「しいのみかやのみ」である。しかし、海士町の子守唄が長調であるのに対し、こちらは短調だ。口ずさむと歌詞のかわいらしさに反し、寂しい感じに聞こえる。さらに全国に分布する兎の耳の子守唄を調べていくと、ほとんどが短調のものなのだ。以下に、耳が長い理由やメロディーの長短調とともに、兎の子守唄を並べてみたい。

短調
母ちゃんのポンポでしいのみかやのみ食べた(東京 文京区本郷)
お母さんのおポンポンでしいのみかやのみ食べた(熊本 玉名郡横島町京泊)
おっ母ちゃんのぽんぽで長い木の葉を食べた(佐賀 唐津市)
親の腹でびわの花をくわえた(広島 豊田郡豊町)
びわの葉をくわえて(岡山 赤磐郡熊山町)
わりの葉 かやの葉 たんと食べ(栃木 芳賀郡茂木町)
お母さんのおなかでかやの実 かちぐり食べた(新潟)
お母さんのおなかでばしゃの葉柳の葉を食べた(愛知 額田郡常盤)
母さんのぽんぽんで木の実かやのみ食べた それでお耳が長うござる(愛知 丹羽郡池野)
ちち乳母が耳をくわえてひっぱった(大分 竹田市本町)
母さんがお耳をくわえてそっぱった(長崎 下県郡厳原町)
母さまがお耳をくわえてひっぱった(高知 高岡郡佐川町)
母さんがお耳をくわえてひっぱった(香川 丸亀市川西町/仲多度郡仲南町)

長調
母ちゃんのポンポンできゅうりやくさを食べた(岡山 和気郡日生町)
おかかのおなかでしいのみかやのみ食べた(島根 鹿足郡柿木村柿木)
お母さんのおなかで枇杷の葉笹の葉食べた(島根 隠岐島海士町)

 ざっと見渡すと主に東は東京から西は北九州まで分布している。東北以北のものは見つからない。しかし、この柳原書店のわらべ歌シリーズがあらゆるわらべ歌を網羅しているわけでもない。案の定、他の資料(真鍋昌弘、吾郷寅之進「わらべうた」昭和51年)にもあたると、上記の「食べ物」系、「耳をひっぱられた」系以外にもう一つ「周囲の土地」タイプとも言うべき系統があることがわかった。

兎や兎なじょして耳ぁ長いね お山の事も聞ぎでえし お里の事も聞ぎでえし ほんで耳ぁ長いね(山形 最上郡)
兎どん兎どん なして耳が長いか 他人で生れてうねんで育って 谷のそも聞きたし畝のそも聞きたし それで耳が長いよ(広島 双三郡)

 この本の著者の一人でもある真鍋は、こうした、土地のことを知りたくて耳が伸びた、というグループは、東北と中国地方にだけ残っていることを示す。さらに中国地方の田植え唄にその原形をみとめており、田植え歌にうさぎが歌われた背景として、兎が「山の神」やその使いとして信仰されていたことを指摘する。中国地方では、兎に乗った山の神が木々に若芽を授けたり、シシ狩にいくという伝承が残っているという。
 田植歌に歌われた兎の神性は、山や里などのことを知りたいと歌う兎の子守唄の中に残された、といえそうだが、赤田光男は「ウサギの日本文化史」の中で、鈴木牧之ののこした「北越雪譜」を紹介し、たおした木を運ぶときに歌う「木遣歌」の中にも、ウサギの耳が歌われることに注目している。 「母の胎内にいた時に笹の葉をのまれて」と歌われるこの木遣歌は1828年当時牧之が耳にしたものである。木遣歌と子守唄は互いに深い関係があるといわれるが、赤田は、木遣歌にうさぎが歌われることについて、帝釈天とうさぎの関係を持ち出す。それは、木遣に「修羅」といわれる、そりのような運搬具が使われるためだ。修羅は「大石」ほどの重いものも運ぶことができる。この「大石」に「帝釈」がかけられており、帝釈天と阿修羅の戦いという隠された意味が浮かび上がる。うさぎが帝釈天の食べ物となるため、自ら火に飛び込み、帝釈天により月に送られた話は有名だが、赤田はこの木遣歌はそもそも神歌としてのうさぎ歌なのだ、としている。うさぎは農作物を荒らすため嫌われてきた一方で、山の神やその使いとして神性を付与されてきた。大石を運ぶそりに帝釈天、うさぎと連想ゲームのようにイメージが投影されていったわけだが、これが月と絡んでいるところに、木遣歌の呪術的な性格が表れているように思う。「北越雪譜」自体は江戸時代の書物だが、兎の耳の長さの由来を歌うという行為自体は、歌が呪術に収斂されていく、かなり古い時代にまでさかのぼれるのではないだろうか。
 メロディーについては上で一覧したように、大体が短調で、長調のものは、海士町の子守唄も含め、中国地方に限られるようだ。ただし、岡山和気郡のものは、明治の唱歌調で比較的新しいもののように思える。島根の鹿足郡のものは同じ長調でも、海士町のものと違い、単調なリフレインが続く。ここで気になってくるのは、ハーンが書き残した、海士町の子守唄に感じた「哀調」が、果たして短調だったのか、ということだ。海士町に残されていた手書きの小冊子の中で、私が目にした楽譜には短調のものはなかった。しかし他県の「ウサギの耳」の子守唄は圧倒的に「短調」が多い。とすれば、海士の子守唄にハーンが感じたものは、「哀調」とは書かれたものの、新鮮なフレーズの動きだったり、長短調という区分を超えた歌い手の生き生きした情感そのものだったのかもしれない。実際、80年当時ハーンの聴いた子守唄はどれだったか、ということで海士町の人や専門家たちがこれと決めたバージョンは「大野キワ」さんが伝えたものだったが、これも長調である。しかし途中で一部短調のような展開が見られ、なかなか歌として凝った作りのものになっている。
 私は「上野品子」さんバージョンの、全体に長調の愛らしいものが好きだったので、それを翌日のライブで演奏した。地元の方にどのような反応をいただくか、若干心配だったが、年配のお祖父さんが、「今日のはちょっと格別な感じがしましたね」と言ってくださりほっとした。地元のテレビ局が映像をとっていたこともあって、ニュースで子守唄の部分だけ放送された。お年寄りからかなり反響があり、改めてこの子守唄を追ったドキュメンタリーを作りたいという報告を後に記者の方から頂いた。
 この私が演奏した「上野品子」さんバージョンは明るく朗らかで、子どもたちもすぐに歌いたがる。家で弾く時は1番は静かに始めて、二番から左手をはねた調子にすると、みんな踊りだして大喜びだ。海士町の保育園や幼稚園でもぜひ取り入れて、振りもつけたらかなり楽しくかわいらしいのではないかと思う。
 古臭いと思われているものは放っておけば途絶えてなくなる。古式ゆかしく継承する必要はないと思う。その価値に気付いた者が、時代に合わせた形で工夫をしながらその美しさを伝えていけた時、その土地の文化はまたひとつ更新され、命を延ばす。歌い手によって、歌詞もフレーズも違ったりする子守唄は、本来そうした形で自由に息長く受け継がれておかしくないと思うのだけれど、多くの子守唄が消滅しつつあるのが現実のようだ。すでに30~40年前にそうした危機感を抱いた研究者たちによって、採集と楽譜化がなされてきた。そうして残された楽譜を前に、多分私はずっと各地の子守唄を歌っていくような気がする。「私の町に歌いに来てください」という有難い招きに導かれて、その土地にその土地の響きを響かせるために。またある時はその土地に別の土地の響きを伝えるために。

2016年2月6日 沖縄浦添グルーブ(アップライトピアノ)