【今週はこれを読め! SF編】天使が見える神経学者、偏執狂の諜報プロ、神聖なるドラッグの探索

文=牧眞司

  • 迷宮の天使〈上〉 (創元SF文庫)
  • 『迷宮の天使〈上〉 (創元SF文庫)』
    ダリル・グレゴリイ,小野田 和子
    東京創元社
    2,866円(税込)
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  • 迷宮の天使〈下〉 (創元SF文庫)
  • 『迷宮の天使〈下〉 (創元SF文庫)』
    ダリル・グレゴリイ,橋本 輝幸,小野田 和子
    東京創元社
    2,866円(税込)
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 子どものころは素朴に、科学思考が信仰や神秘体験を駆逐すると思っていた。合理と実証をつきつめれば神や霊は否定しうる、と。もちろん、実際はそんな単純ではない。科学思考と信仰はじゅうぶんに両立する。

『迷宮の天使』が面白いのは、信仰を心の問題ではなく、大脳の状態として扱っている点だ。主人公のライダ・ローズはかつては気鋭の神経科学者だったが、薬物「神聖(ヌミナス)」を過剰摂取して以来、天使ドクター・グロリアが見える。その天使は独立した意志を持ち、ライダに助言を与える頼もしい存在でもあり、少々煩わしいお目付役でもある。また、ライダがぶしつけなふるまいをすると、機嫌を損ねて姿を隠してしまう。

 ヌミナスは、もともとライダを含むベンチャー集団が、統合失調症の特効薬として開発を進めていたものだった。統合失調症は前頭葉と側頭葉の萎縮によって引きおこされるが、ヌミナスはこの状態を改善する。ヌミナスの研究成果を大企業に売却することが決まり、その祝いのパーティでライダとその仲間はヌミナスを過剰摂取してしまう。仲間のひとり化学者のミカラが持参したシャンパンに、この薬が仕込まれていたのだ。ミカラが故意にしたことかどうかはいまとなってはわからない。ヌミナスがもたらす忘我の状態のさなか、ミカラは刺殺されてしまったからだ。情況証拠によって技術者のギルが犯人とされるが、真相は藪のなかである。この事件によってヌミナスは封印され、ベンチャーも解散となった。

 ヌミナスは副作用として、服用者に神を幻視させる。少量ならばその効果は一時的で、やがて神は消える。しかし、過剰摂取すると脳の変化が固定され、つねに神が見えるようになる。ライダはその状態だ。

 さて、物語が幕を開けるのは、事件から10年後である。精神状態の定まらないライダ----他人にすれば天使ドクター・グロリアは妄想でしかない----が入院している病棟で、フランシーヌという娘が自殺をする。生前の彼女にあらわれていた症状は、ヌミナスの副作用とそっくりだった。フランシーヌは神の顕現によって安らぎを得ていたが、入院してヌミナスの効果が薄れたことで、神が去ったと絶望したのだ。

 しかし、封印したはずのヌミナスがどうしていま流通しているのか? ライダは追跡装置を体内に埋めこむことを条件に退院を許され、調査を開始する。ドラッグ流通を牛耳るマフィアとの接触からはじまり、新興宗教ホログラム教会での特殊なケムジェット(化学合成する小型装置)の発見、しかし、その教会の牧師が何者かに虐殺され......と、事態はとてもライダひとりの手に負えそうにない。

 思いあまったライダは、強力な助っ人オリーを呼びだす。オリーは入院中に知りあった患者仲間にして同性愛のパートナーであり、諜報活動のプロフェッショナルだ。オリーはクラリティという薬物によって驚異的なパターン認識能力を得ていたが、その代償として偏執狂になっていた。ふだんは投薬によってそれを抑えこんでいるが、ヌミナスの流通経路を特定するために、あえて危うい精神状態に身を置くことを選ぶ。しかし、バランスを崩せば偏執狂の症状で手に負えなくなる。爆弾を抱えているようなものだ。

 もうひとりの味方も風変わりだ。やはりライダが入院中に知りあったボビーで、彼は自分の意識が脳内ではなく、首に提げた小箱のなかに宿っていると信じている。底抜けに善良で、ライダのために尽くしてくれるが、戦力としてはほとんどあてにならない。

 ほかにライダが頼れそうなのはかつてのベンチャーの仲間たちだが、こちらは連絡するにも慎重にしなければならない。なにしろヌミナスの秘密を知っているのは彼らだけなのだ。ということは、いま巷に出回っているヌミナスも、そのうちの誰かが絡んでいると考えるのが自然だろう。ちなみに、彼らもライダと同様、それぞれの神が見えている。

 さて、神経脳生理学もしくは認知科学的なアイデアを中心に据えて、人間の意識を主題化するSFは、グレッグ・イーガン、テッド・チャンをはじめ、ここしばらくのトレンドといってよい。たとえば、ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』や伊藤計劃『ハーモニー』では、自由意志をともなわない知性が描かれていた。『迷宮の天使』もその系譜に連なる一作だ。しかし、いま名前をあげた作家たちとは異なり、ダリル・グレゴリイはテーマをラディカルに追求することよりも、ストーリーを力強く駆動させることに軸足を置いている。説明的な叙述は必要最小限で、非常にテンポが良い。

 そのいっぽうで、構成は凝っている。(1)ライダの一人称で綴られるパート(これが作品の主幹をなしている)、(2)ライダが知りえぬシーンを描く三人称のパート(時系列的にはライダの一人称パートと平行している)、(3)ときおり挿入される謎めいた「譬(たと)え」のパート(時系列的には過去のできごとを語っている)----こうした三様の語りが組みあわさっているのだ。ただし、それは読者を眩惑するためではなく、むしろプロットをくっきりさせる手法として用いられている。良くできた映画のカットバックと同じだ。

 それに加え、物語の芯におかれた「謎」が読者を牽引する。いちばん最初に提示される〈現時点の謎〉は「ヌミナスを流通させている者の正体とその目的」だが、物語が進行するにつれて〈新しい謎〉と〈古い謎〉が立ちあがってくる。

〈新しい謎〉とは、アウトローの仕事人ザ・ヴィンセントにかかわるものだ。この男もライダと同様にヌミナスの流通経路を追っている。ライダと違うのは、彼は依頼人の命を受けあくまでビジネスで調査をおこなっていることと、その調査のやりかたがきわめて荒っぽいことだ。ザ・ヴィンセントは薬によって共感能力を抑えており、眉ひとつ動かさずに拷問や殺人をおこなう。やがて、ライダはこの冷徹な男と対決するはめになる。しかし、彼を雇っている依頼人は誰だろう? ヌミナスが出回っていることを知りうる立場にいる人物(もしくは組織)など、そうそういるとは思えない。しかし、ザ・ヴィンセントのような者を雇って、力尽くでことを運ぼうとするその狙いは?

 いっぽう、〈古い謎〉とは、ヌミナスを封印することになった十年前の事件の真相だ。死んだミカラは、ベンチャーの他のメンバーと異なり研究成果の売却に反対していた。しかし、だからといってシャンパンにヌミナスを仕込んだりするだろうか? 彼女はメンバーのなかでもっとも明晰で、天才といえる人物だった。そして、ライダとは同性婚のパートナーだった。

〈現時点の謎〉〈新しい謎〉〈古い謎〉----このみっつは相互に関連しあっていて、そのつながりがドミノ倒しのように明かされる終盤の展開がじつに鮮やか。すべての謎が解けたのちに、あらためて信仰と魂の問題がクローズアップされる。

(牧眞司)

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