【今週はこれを読め! SF編】J・P・ホーガンを超える壮大なSFミステリにしてO・ヘンリーの情緒
文=牧眞司
日本の宇宙科学研究開発機構の無人宇宙探査機〈ノリス2〉が、小惑星パンドラから持ち帰ったのは、四万年から五万年前と推測されるホモサピエンスの化石人骨だった!
山田正紀の新作『ここから先は何もない』は、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』ばりのSFミステリだ。ホーガン作品と違うのは、物語がきわめて日常的な地平(冒頭はなんと札幌の地方銀行の支店窓口だ)からはじまること、それでいて謎のスケールが壮大で、真相を探っていくうちに太陽系内における生命の起源にまでいきついてしまうことだ。
ストーリーの組み立ても凝っている。宇宙科学研究開発機構が研究スタッフを組織して、人骨の調査にあたるというストレートな展開にはならない。人骨はNASAに接収されてしまい(〈ノリス2〉に機材提供をした見返りという名目だ)、いまは沖縄のどこかにつくられたアメリカの対バイオ・ケミカル研究施設『スノーボール』へ運ばれた。日本政府は表向きには手が出せないので、イレギュラーな混成メンバーによる情報奪還チームにミッションを委ねる。チームを率いるのは、民間軍事会社を経営する天性のオルガナイザー大庭卓。彼の元に招集されたのは、凄腕のハクティビスト(ハッカー+アクティビスト)神澤鋭二、解剖医にしてキャバクラ嬢でもある藤田東子、かつては宇宙生物学を学び、いまは非正式の神父として無聊をかこっている任転動、驚異的な身体能力を有する妖精めいた風情の野崎リカ----である。
前半は、化石人骨----小惑星パンドラにちなんでエルヴィス(ギリシャ語で「希望」)と名づけられた----を保管した『スノーボール』の所在地を突きとめ、厳重なセキュリティをかいくぐって侵入する作戦が、ストーリーの主たる動きとなる。ハイテクとローテクを巧みに組みあわせた作戦が鮮やかだ。そのいっぽう、エルヴィスの謎も詳しく提示される。不可解なのは、小惑星に人骨があったということだけではない。それが採取された状況が、通常では考えられない事態の連続なのだ。
まず、もともと〈ノリス2〉の探査対象は、小惑星ジェネシスだった。それがなぜ、パンドラに変更されてしまったのか? もちろん、地球からの遠隔操作ではない。そもそもそんなコントロールは不可能だ。
さらに、ジェネシス接近時の映像をチェックすると、〈ノリス2〉の挙動に不可解なところがある。表面に着陸するためのガイドとなるターゲットマーカーを射出するのだが、そのタイミングが早すぎる。小惑星表面から八百メートルの高度で撃っても、正確なマーキングができるはずがない。
そして、その発射直後に〈ノリス2〉のいっさいの通信が途絶している。非常時を想定して三種類の通信システムを搭載していたが、そのすべてがダウンしているのだ。およそ三時間三十分後に通信は回復するが、どのようにシステムが再起動されたかも不明だ。
通信回復時、〈ノリス2〉は小惑星表面から四百メートル上方に達していたが、その小惑星はこのときすでにジェネシスではなく、パンドラだった。
こうした一連の謎を、システムのエキスパートである神澤鋭二----彼がこの小説でいちばんメインの登場人物だ----は、次のように集約する。
○完全なスタンドアロンのコンピュータ・システムにいかにして初期プログラム以外の作動をさせることが可能だったのか。
鋭二を奪還チームに誘った大庭卓は、この状況はガストン・ルルーの古典『黄色い部屋の謎』のようだという。どんな名作ミステリであっても、小説の密室トリックは解き明かされてしまえばそんなことかと拍子抜けするようなものばかりだ。『ここから先は何もない』も例外ではない。しかし、ほんとうの謎はその先に立ちあがる。わざわざ宇宙空間に、こんな面倒なトリックを構成した意図は何か? そして、真犯人は誰か?
ミステリのトリックは、小説のなかにユニットのように嵌めこまれている----それこそスタンドアロンの装置のように----と思われるかもしれないが、実際はストーリーや叙述をキメ細かく調整することで----つまり小説空間というネットワークとつながって----成立している。「不可解」も「拍子抜け」も、そのネットワーク構築物をどの方向から見るかだけのことだろう。山田さんは、その見せかたが非常に巧い。老練である。
そのいっぽうで、SFのテーマとしてみれば、デビュー作『神狩り』以上に若々しい。『神狩り』では、圧倒的な力を有する超越的な存在に対して一介の人間が抗う。『ここから先は何もない』でも、物語の終盤にそれと似た構図が描きだされる。ただし、神というようなメタフィジカルな存在ではなく、あくまで科学の範疇でとらえうるものだ。そのあたりの描きかたはグレッグ・イーガン以降のSFである。
しかし、私が注目したのはそこではなく、そうした強大な相手に対し、主人公たちがどのように対峙するか、その姿勢だ。彼らが到達したのは、ニヒリズムでもなく理由なき反抗でもない地点で、それが非常に若々しい。山田さんは先行作品を借景のように用いたりモチーフとして自作に導入することがよくあるが、『ここから先は何もない』ではなんとO・ヘンリーを使っている。みずみずしい青春の匂いだ。
物語開幕からしばらくのち、主人公の鋭二が札幌の町を歩いているときに、ちょっとしたエピソードのなかにO・ヘンリーのある作品が提示されるのだが、結末で別なO・ヘンリー作品につながる展開もみごと。スケールの大きなSFのヴィジョンと、市井のひとのキメ細やかな情緒を扱ったO・ヘンリーとが絶妙のコントラストをなしている。
(牧眞司)