【今週はこれを読め! SF編】ルールを目的とするルール無視、ポスト・トゥルースのゲーム

文=牧眞司

 第三回ハヤカワSFコンテストに投じた『ユートロニカのこちら側』で大賞を射止めた小川哲の、これがデビュー二作目にあたる。それにしても、とてつもない膂力の新鋭があらわれたものだ。小説を手がける以前に脚本家としてじゅうぶんな実績があった月村了衛は別格としても、宮内悠介や藤井太洋を筆頭に2010年代デビュー組は、のっけからベテラン作家なみの内容・構成・表現を見せつけており、小川哲もそれにつづく才能だが、年齢はひときわ若い。デビュー時にはまだ二十代、本書執筆途中に三十歳を迎えたばかりだ。なのに、この熟練ぶりは驚異といえよう。

『ゲームの王国』はカンボジアの激動する現代史を背景に、生き抜くため、あるいは理想を達成するためにあがきつづける人間像が描かれ、愛、友情、信頼、争い、裏切り、疑念、妥協が交錯する。物語にもりこまれた情報量はおびただしいが、作者はそれを前面に出すのではなく、めまぐるしく変化する状況を高解像度で描くために用いている。

 作品の軸となるのは、他人の嘘を見抜く直感を持つソリヤと、天童といわれるほどの思考力を有するムイタックだ。物語そのものは1950年代半ばから開幕するが、このふたりが出逢うのは内戦が激化したのちの1975年4月17日だ。このときまだ少女と少年だった彼らは、トランプに興じる。最初はムイタックの兄ティウンも参加していたが、とても相手にならず、けっきょくソリヤとムイタックの一騎打ちとなった。そのあいまに交わされる会話が象徴的だ。



「ねえ、あなたたちは、政治には興味ないの?」
「あんまり」とムイタック。「僕もあんまり」とティウンも同意した。
「クメール・ルージュは共産主義者で、アメリカの手先のロン・ノルに対抗しているゲリラなの。追放されたシハヌーク殿下もクメール・ルージュの味方をしてて、今、その争いがとても重要な局面を迎えていてね。田舎だとそういうのってあんまり情報が入ってこないのかな」
「そういうことじゃないんだ」
 ムイタックが答えた。「そういうのって、ゲームとしては不完全だからさ。ルールを守らないやつもいるし、そもそもルールも曖昧だし。最後に誰が勝ったかもよくわからない。ちなみにクメール・ルージュは悪いやつらなの? その辺がよくわからないんだ」
「何を『悪い』とするかだね」と答えてから、ソリヤは「私も山札を二枚」と言って、国王を二枚捨てた。「これで勝負だね」



 ソリヤが捨てた「国王」というのはもちろん、札に割りふられた役割のことだ。

 ムイタックは「完全なゲーム」にしか興味がなく、ルールの範囲ならばどんな大人にも負けはしない。しかし、興味のあるなしにかかわらず、人間はルールが曖昧な社会のなかで生きていく宿命なのだ。ふたりがトランプをしたこの日、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュがカンボジアの権力を掌握する。

 いっさいの個人所有・売買(金銭を介さない物々交換さえ)を禁じ、血縁による家族のつながりを否定する思想のもとでなされた国家運営は、虐殺と相互監視を生み、そのなかでソリヤも大切な人間を失う。しかも、おおぜいの人間を救うのと引き換えだったとはいえ、ソリヤがその人物を見殺しにしたかたちだ。彼女はその後、どんな手段を用いようが(つまりルールなどおかまいなしに、ときにはルールを逆手にとって)自分の理想を達成しようと決意する。

 ここで、ムイタックとソリヤの道は分かたれてしまった。やがてポル・ポト独裁政権が瓦解するが、民主化されたカンボジアも政治腐敗が蔓延る息苦しい社会だ。物語は近未来へと及び、大学教員となったムイタックの研究室で興味深い脳波の特質が確認される。それはP120と呼ばれ、意識が判断をおこなう以前に行動をうながす信号だ。この脳波を外部から操作したらどうなるか。人間を人形のように操るなどはとても無理だが、抽象的な真実を調整することぐらいならば可能かもしれない。

 このアイデアが、『ゲームの王国』のもっとも突出したSFらしい部分といえるだろう。もちろん、「SFらしさ」とはあくまで外形的なもので、小説の展開のなかではさしたる重要度はない。そう、ゲームに途中から付加される特殊ルール(自分の駒がこのエリアに入ったらほかの駒を一マス戻せる----というような)くらいの感じだ。

 ムイタックのP120が生理的・認知的に真実をゆがめるテクノロジーだとしたら、メディアを巧妙にコントロールする、いわゆるポスト・トゥルース政治の手腕を発揮しているのがソリアである。野党議員となった彼女は確実に権力中核へと近づいていく。政治家のスキャンダルを執拗に追うマスコミからも巧妙に逃れ、過激派からの襲撃すらも自分のイメージアップへ転化し、自分がめざす大義のために犠牲になる者が出ても眉ひとつひそめない。皮肉なのは、ソリヤがめざすのは「公平なルールがあり、権力者も含め皆がルールを守るカンボジア」なのだが、これを達成するにはルールを度外視せざるを得ないことだ。

 目的のためには手段を選ばぬソリヤだが、そんな彼女の正体を知る者はほとんどいない。市民は彼女は珍しく清廉な政治家だと信じて支持している。しかし、昔なじみのムイタックはわかっている。いつか彼女を止めなければいけないと。

 はたして、かれらの最後のゲームはどのように戦われるのだろうか?

 物語はこのふたりを焦点としつつ、それをとりまくたくさんの人物が登場する。彼らの運命は複雑にもつれあう。マジックリアリズム的な事象が無造作に投げだされるのも特徴的だ。輪ゴムで村のだれかが死ぬ予兆を得る男、土を食べることで土を自在に操れる農民、「不正の気配」を察知して勃起する記者、どんな話題もヘモグロビンの問題にすり替えてしまう医師......。マジックリアリズムといえばガルシア=マルケスをはじめとするラテンアメリカ文学を思いうかべるだろうが、『ゲームの王国』はファンタスティックが横溢する『百年の孤独』とはタッチが異なっている。歴史のうねりと地を這いずりまわるような視線、埃っぽい日常がより濃厚にあるせいだろうか、中国の現代作家・莫言に近いものを感じた。

(牧眞司)

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