【今週はこれを読め! SF編】赤目の男に変身する孔雀、山頂と地下をつなげる大蛇

文=牧眞司

 ほんものの幻想文学。ぼくが読みたい幻想文学は「昼間の論理」「日常の辻褄」「類型的な物語」の彼方にあるものだ。『飛ぶ孔雀』は、一行目からその領域へと引きこんでくれる。


 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。


 その先をいくら読んでも、石切り場の事故の子細は明かされず、着火性や可燃性といかなる因果があるかも示されない。

 ただ、シブレ山の近くにはシビレ山というのがあり、そこには大蛇が出ると伝えられる。それも伝承と呼べるほどのものではなく、登場人物のひとりKの曖昧な記憶だ。Kは子どものころ山中で国土地理院の男に遭い、そう聞かされた。そのときKがいた山がどの山だったか、そもそも幼いKがひとりでなぜそんなところにいたか、まったく覚えていない。男は片頬に灰色の痣があり、ふと気づくと男が消えて、その場所にオオカミイヌがいる。かと思うと、また男があらわれる。

 シビレ山は丹(水銀)を産した。そのせいでシビレが出る。それが名づけの元になったのだ。男はつづけて「雷は高い梢に落ちるものだが、ある種の山ではおなじ窪地に落ちる。おれはよくそれを見てきたものだ」と言う。男はまた、幼いKにペリットの実物を見せながら説明する。ペリットとは猛禽類が獲物を丸呑みし、消化したのちに吐きだしたものだ。毛皮のなかに骨格標本が一式収まっている。この男の一連の話も、どんな脈絡があるのか、まるでわからない。

 Kのこの記憶。前後の経緯はまったく忘れているのに、男と会話を交わした場面ばかりが克明なのだ。もちろん、その克明さが真実という保証はなく、何度も反芻したせいで誇張もしくは改変されているかもしれない。

『飛ぶ孔雀』という作品自体もまた、全体の脈絡(連続したストーリー性)は顧みられず、場面場面が非常に限定的な視野で鮮やかに描きだされる。断章をとりとめなく並置する前衛小説ではなく、エピソードが途切れ途切れにつながり、何度も登場する登場もいる。また、モチーフ面では反復が多い。ペリットに代表される骨のイメージ、痣の男とオオカミイヌが入れ替わる二重性(分身)、窪地に繰り返し落ちる雷のような閃光。

 基底となっているのは「火が燃えにくい」世界だ。一律に燃えにくいのではなく、比較的燃えやすい場所とまったく燃えない場所がまだらになっている。電気は通じているものの、ひとびとはなぜか電気に頼ろうともせず(この世界ではどうやら電気では加熱性が不十分らしい)、煮炊きする料理を諦めている。自動車のエンジンもいったん止めてしまうと、作動しなくなってしまう。

 また、火の事情と関係あるかわからないが、この世界では石の畸形化なる現象がみとめられる。石の多い問屋街などは石段の蹴込みが不揃いに持ちあがり、色目の違う部分が気味悪く大幅に出現している。

 火についても石についても、ひとびとはこの世界をただ受け容れて暮らすばかりで、仄暗く、淀んだ雰囲気が生活を覆っている。

 この小説を語るうえであらすじを抽出しても意味はない。ここではとくに印象的なエピソードにのみふれておこう。

『飛ぶ孔雀』は二部構成で、第一部が「飛ぶ孔雀」、第二部が「不燃性について」と題されている。

「飛ぶ孔雀」では、川中島のQ庭園内で催された夜の茶会のため、タエとスワの姉妹が、別々のルートで火を運ぶ。タエは南回りで莨盆用の火入れを、スワは北回りで手燭を携える。この運搬に際してはいくつかの禁忌があった。芝生は踏むな、園内のトラクターは使用禁止、話しかけられたら応えるのが礼儀、口笛を吹いてはならない、地面に火を落としたらそこで終わり、などである。姉妹が出発すると、火を守る孔雀が追ってくる。孔雀は一羽のはずだが、タエもスワも追われる。孔雀は赤目の男に姿を変えるようでもある。

 ふたりの出発より前、島の反対側の某所では、カードがテーブルの上に並べられていた。お茶人のカードがたくさん、怪物、橋、孔雀と石灯籠、孕み女、そして女子高生のカード......。

 タエとスワはカードの気まぐれに操られているのだろうか? いや、むしろカードが示す運命も、Kの幼いころの記憶と同じく、実際の出来事と夢の因果のような曖昧さでつながっているのだろう。

「不燃性について」では、筆耕事務所に勤めるKが、路面電車を運転するいわくありげな女と関わったせいで、地下建築のなかに身を潜めるはめになる。そこには公営浴場があって、まっ黒な丸い底穴から大量の湯を汲みあげている。これと平行して語られる別のエピソードでは、若い劇団員のQが劇団の都合でシビレ山の山頂にある頭骨ラボへ派遣される。動物の骨を煮ては磨く仕事だ。

 KとQとは表面的につながりがないが、終盤に至ってある人物を介して結びついていることがわかる。それ以上に印象的なのは、Kが潜伏している地下とQが抜けだせずにいる山頂とが、幻想の地誌学とでもいうべきもので結びついている点だ。

 ゆきすがりの観光客の夫婦が、無邪気にこんな会話をする。


「岩風呂の評判なら聞いた覚えがある。ロープウェイの展望台にあると聞いたんだが、反対に地下深くにあると言う者もいたな(略)どちらも共通して言うのは、眺めがいいということだな。それが只事でない眺望だと」。
「あたしが聞いたのは大蛇の評判だわ。赤い鶏冠つきの大蛇の話。元は冠だったのが変質して肉腫にまで落ちぶれたとかで、それがひどくみっともなく不釣り合いで、山の穴にいる本人も気にしている様子だとか。蛇に本人もないけれど」。


 第一部「飛ぶ孔雀」で赤目の男に変身する孔雀が登場したように、第二部「不燃性について」では、噂になっていた途轍もない大蛇が姿をあらわす。しかも、山頂の奥で目撃されたかと思うと、街の地下公衆浴場の底穴から躍りでるという神出鬼没ぶりだ。

 泉鏡花「高野聖」につらなる動物怪異譚とも、バシュラールやカイヨワが大喜びしそうな物質的想像力が横溢したシュルレアリスムとも読める。

(牧眞司)

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