【今週はこれを読め! SF編】埃だらけの空気、花を携えた乗客、姿をあらわさないトラ

文=牧眞司

  • 奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)
  • 『奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)』
    フリオ コルタサル
    光文社
    842円(税込)
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 アルゼンチン幻想文学を代表するコルタサルの実質的な第一短篇集。1946年から50年までに書かれた八篇を収めている。「実質的」というのは、44年に短篇集『対岸』の原稿が完成していたものの、出版にいたらなかったからである(著者歿後の94年に出版)。『対岸』については邦訳が出たときに書評したが(現在は『JUST IN SF』に収録*)、そこではスタージョンやライバーを引きあいに出している。異色作家という位置づけだ。

 だが、『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』では、そこから何歩も踏みだして、コルタサル一流の領域に達している。

 読書とは自由なものだから短篇集はどこから読んでもいいのだけど、ことこの本に限っては収録の順に読むことを薦める。コルタサルの特質がよく掴めるからだ。

 最初の「奪われた家」は、先祖の思い出が詰まった古く広い家に暮らす四十代の兄妹(ともに未婚)の物語。平穏な日々のなか、事件は前ぶれもなく起こった。誰もいないはずのダイニングか書斎から物音が聞こえてきたのだ。その直後、兄妹のいる部屋のドアの向こうからも同じ音がする。兄はあわててドアを閉ざし、閂(かんぬき)をかけた。妹はいう。「こっち側で暮らすしかないわね」。

 家の向こう側を奪った者(あるいは物)の正体は明かされない。兄妹は知っているのかもしれないが、それについてはいっさいの言及がない。その後、じわじわと家は奪われつづけ、兄妹が暮らせる空間が限られていく。

 当時のアルゼンチンがフアン・ペロンによる独裁政権の只中にあったことを重ねあわせると、この小説をメタファーで解釈することもできる。しかし、訳者・寺尾隆吉さんが「解説」で書かれているように、そうした解釈はせっかくの文学作品を矮小化することになりかねない。「奪われた家」の理不尽に浸蝕される兄妹の無力さは、ペロン時代を知らない現代の読者にもじゅうぶんに伝わる。

 家の略奪がはじまる前の平穏な日々の叙述に、コルタサルはこんな文章を忍びこませている。


 ブエノスアイレスは清潔な町だが、それはひとえに住民がきちんと掃除をしているからだ。いつも空気は埃だらけなので、突風が吹いただけで、コンソールテーブルの大理石に塵が積もり、マクラメレースの菱形模様にまで入り込む。


 政治的な叙述ではなく、埃だらけの空気という些細な生活感覚。これが、このあとにつづく不条理を引きたたせている。

 二番目の収録作「パリへ発った婦人宛ての手紙」は、はっきり奇想小説といえる作品。なにしろ、語り手がときおり小ウサギを吐く体質なのだ。本人はもう慣れっこで、自ら栽培したクローバーでウサギを育てては、業者に引き取ってもらっている。しかし、パリに行った婦人の留守宅を預かるようになったとたん、異変がおこった。それまで一カ月に一度くらいだった吐出が頻繁になり、部屋が小ウサギだらけになってしまったのだ。殺してしまえばいいとも思ったが、その勇気がわかない。

 留守宅には、住みこみの女中がいた。最初のうち、語り手はこの女中に気づかれないように、小ウサギを寝室のクローゼットに隠して飼育するが、だんだん収拾がつかなくなっていく。逃げだしたウサギが家具や壁を囓り、語り手はそれを糊塗しようと大わらわ。読者はエスカレートしていくさまに目をとられてしまい、もしかするとこれは語り手の妄想ではないかと疑いもするが、コルタサルはそれを上まわるサプライズを用意している。

「遙かな女 ----アリーナ・レエスの日記」は、社交にうんざりしている娘アリーナが退屈を埋める手すさびに、惨めな境涯の「遙かな女」についての空想を膨らませていく。アリーナがつける日記の形式で、日常のできごとに交じりながら、空想がだんだん克明になっていく。自分だけがわかるように書かれた日記なので、辻褄が合っていないようなところがあったり、回文やアナグラムの遊びが含まれているなど、かなり手強い文章だが、そこには言いしれぬ迫真性がある。

 アリーナは「女なんて、結婚するか、日記をつける、そのどちらか、両立はできない」などと書きつけたあげく、日記をやめて結婚を選ぶ。作品の結びは、日記ではなく、彼女が夫とともにブダペストに渡り、そこで「遙かな女」と出逢うところでクライマックスを迎える。そこで何が起こったのか......。

「バス」では、土曜日の午後、友人に会うためバスに乗ったクララが、ほかの乗客がみな何らかの花を携えていることに気づく。バス路線の途中に墓地があるのでそのためかと納得するのだが、乗客たちのほうはクララに不躾な視線を注いでくる。乗客ばかりではなく、車掌や運転手もクララを敵視する。やがてどこかのバス停で、花を持っていない若者が乗ってくるが、彼もクララ同様に冷たく扱われる。混んだバス内の不穏な空気。しかし、なにが問題なのか、クララには(そして読者にも)わからない。

 この作品にはタネ明かしはいっさいない。花を何かの象徴と考えることもできるが、けっして意味を固定しないのがコルタサル作品だ。

「偏頭痛」では、マンスピアという動物を飼育している男女が、さまざまなタイプの頭痛に襲われる。マンスピアの煩雑な手間と、頭痛の症状(それは嗅覚で記されたり空間感覚であらわされたり多彩な表現で描かれる)、それを緩和するための治療(ホメオパシーによることが多い)が綴られるのだが、負担がどんどん増るばかりで立ちゆかなくなっていく。淡々と語られているが、不協和音が高まっていくような緊張が凄まじい。マンスピアの生態が詳述されるが、それが作品を解く鍵というわけでもない。この正体不明なところは、カフカの「巣穴」を髣髴とさせる。

 二人の婚約者に先立たれた娘が自ら考案したボンボン(砂糖菓子)を作りつづける「キルケ」、いかがわしいキャバレーで語り手が死んだ恋人の面影を追う「天国の扉」も、一筋縄ではいかない作品。どちらも死と幻(幻覚とも妄想ともつかない)をテーマにしており、一意的な解釈を許さない。

 きわめつけは巻末の「動物寓話集」だ。少女イザベルは、夏休みにフネス家に滞在する計画だ。以前にもフネス家で過ごしたことがあり、そこの子どもたちとはうまくやれたので、とくに不安はなかった。しかし、母とイネス(作中で明示されていないがおそらく家政婦)は反対する。

 イネスの言い分はこうだ。「トラのことなら、しっかり見張っているから大丈夫でしょうけど、あんな寂しい家で、遊び相手もあの男の子だけじゃ...」。

 さらっと出てくるので見すごしてしまいそうになるが、「トラ」って何だ? 読者は首を捻りながら、まあ、先へ行ったらわかるのだろうと思って読み進む。しかし、トラの実体はいっこうに登場しない。ただ、イザベルがフネス家に着いてからは、「どの部屋にトラがいるか確認するまでリビングに出ないよう」とか、「トラの動きを知らせてくれるのは、ほとんどいつも親方だった」という記述がある。

 ひょっとしてと思いネットで調べてみたところ、原文では「un tigre」や「el tigre」とあるようなので、間違いなく動物の虎だ。もちろん、乱暴者を綽名で「トラ」と読んでいる可能性も拭えないが、物語を読むかぎりそう断じる根拠もない。だいいち登場人物はトラを避けているだけで、トラがなにか恐ろしいふるまいをしたとは記されていないのだ。

 イザベルはほとんどフネス家の少年ニノに連れまわされ、顕微鏡でボウフラを見たり、アリを飼育箱に入れて観察したり、カマキリやカタツムリを捕まえたりして遊ぶ。鮮明で細かい描写はファーブル昆虫記さながらだ。夏休みという猶予を幸せにすごすさまは、官能的ですらある。姿があらわれないトラへの言及をのぞけば。

(牧眞司)


* 『対岸』の書評では1945年刊としていたが、これは同書の訳者(寺尾隆吉)あとがきの記述「ごく親しい友人たちの手に渡っただけ」に基づく。こんかい『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』も寺尾さんの翻訳だが、解説では「ブエノスアイレスの小出版社に持ち込んだが、最終的に出版に至らなかった」とある。

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