【今週はこれを読め! SF編】生存戦略としての支配? それとも共生による進化?

文=牧眞司

  • 天才感染症 上 (竹書房文庫)
  • 『天才感染症 上 (竹書房文庫)』
    デイヴィッド・ウォルトン
    竹書房
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  • 天才感染症 下 (竹書房文庫)
  • 『天才感染症 下 (竹書房文庫)』
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 人類の知能が急激に向上することで社会が混乱をきたす。そんな事態をポール・アンダースンは『脳波』で描いた。トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』は、知能を増進させる新種細菌の被験者による手記の形式で、思考地獄ともいうべき境地が綴られる。知能向上はかならずしも人間に幸福をもたらさない。

 しかし、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』では、知的障害の主人公チャーリイ・ゴードンが施術によって人並み以上の知能を得て、広い世界を知る喜びを知る。本書『天才感染症』でも、アルツハイマーを患い知的機能が衰えゆく老人が『アルジャーノンに花束を』を読んで涙するシーンが描かれる。

 もちろん、知能はほどほどのほうがひとは幸福なのだ、知能よりも善良さや優しさのほうが大切なのだ----といった、ナイーヴなきれいごとに収まるようならSFなんて必要ないので、『天才感染症』はその水準を超えて、人間の意識の問題、思考するとはどういうことかという根源的な問いにもふれていく。

 ただし、小説のたたずまいは、ほぼ直球のエンターテインメントだ。

 アマゾンで新種の真菌感染症が発生し、またたくまに流行が広がる。罹患した者は飛躍的に知能が向上するが、同時に菌の繁殖に有利な行動を自発的に取るようになる。カタツムリに寄生して、鳥に食べられるように誘導する寄生虫がいるが、それを人間−真菌に置き換えたようなものだ。違うのは、人間には意識があり、正しい知識を持っていれば自分が真菌に操られていると理解できる点だ。しかし、それがわかっていても、なお真菌に有利な行動を取らずにはいられない。理性と感情とは別なのだ。

 もっとも、その機構がすぐに明らかになるわけではない。物語は、まず、アマゾンでの調査中に緑色に光る菌が線になって道を示しているのを見つけた菌類学者ポール・ジョーンズと、彼の身に降りかかった恐怖が語られる。しかし、恐怖の正体はわからない。そこでその章は断ちきられているからだ。章が改まって舞台はアメリカへと移る。ポールの弟ニール・ジョーンズが、諜報機関NSAの採用試験を受ける。このニールが全篇を通じての主人公だ。兄弟の父チャールズはかつてNSA局員としてそれなりの実績を積んだ人物だったが、いまは老いて引退している。先にふれた『アルジャーノンに花束を』を読んで涙を流した老人が、このチャールズだ。ニールは父に憧れ、数学と言語の魔術を駆使して敵の暗号を解読し、民主主義のために世界を安全な場所にする----そんな夢を追っていた。NSAに入局しようとする者はそれなりの資格を持ってその門を叩く。しかし、ニールは三年のあいだに、MIT、プリンストン大学、カーネギーメロン大学を退学になったという札付きだ。しかし、情報理論の天才たちは、世間的な常識にとらわれずに偉業をなしとげたではないか。なら自分だって、というのがニールの気骨だ。

 トリッキイな手段を用いて試験をパスしたニール。与えられた仕事は、最近、南米でさかんに更新されている暗号の解読だった。これが、ポールがアマゾンで被った体験と結びついていることが、物語の進行とともにしだいに明らかになる。

 謎の真菌に罹患して帰米したポールは、当初、自分はこの感染で死ぬのではないかと怖れていたが、健康を取り戻すと、とたんに活力に満ちて行動をはじめる。かつてはニールに絶対に勝てなかったスクラブル(単語を作成して点数を競うゲーム)でも、目の覚める腕前を披露するようになる。

 事態はじわじわと不穏さを増していく。コロンビアとペルーでは大統領が暗殺される。アメリカ国内に、ニュートリルなるスマートドラッグが静かに蔓延しはじめる。ポールはニールからNSAの活動を聞きだそうとしたり、父チャールズに得体の知れぬ治療薬を飲ませたりする。その治療薬は、ポールが感染した真菌由来らしい。ニールはポールに不審を抱くが、治療薬は効果をあげ、チャールズの知能は劇的に改善する。

 この段階では、真菌を危険視するニールと、真菌は使いようによって人類に恩恵をもたらすとするポール、両主張が拮抗している感じだ。

 しかし、上下巻からなる邦訳の、上巻終盤から下巻へかけて、大きく物語が動く。まず、南米の混乱は収拾のメドすら立たず、森林保護を掲げる過激派〈メガドス〉の勢力が拡大するにつれ、国民のあいだに反アメリカの空気が高まっていく。NSAの仕事でブラジルに入ったニールは、暴動に巻きこまれるそうになるが、からくもこれを逃れる。必死に帰国すると、そこに待っていたのは、兄ポールと父チャールズの失踪のしらせだった。

 ニールは、真菌が人間を支配するメカニズムについて、次のように考える。


 人間は感情で動く生き物だ。論理と呼ばれるものの大半は、人間が自分の選択に納得するための自己正当化を言葉にしたものにすぎない。(略)
 菌が脳の神経伝達路を効率化するだけでなく、人間の感情までをも乗っとるのだとしたら? それは知性を持たない生物が、持つ生物に影響を及ぼす完璧な方法なのかもしれない。人間の思考と判断力を直接支配するには、脳を標的にした特別な生物が複雑な共進化を遂げる必要がある。そこまでせずとも、脳内の化学物質の量を調整して感情を揺さぶるだけで、あとの高度で洗練された部分は宿主である人間に任せてしまえばいいというわけだ。


 そう、真菌に知能はない。しかし、真菌に何が有利かは、宿主である人間が勝手に考えてくれる。さらにスリリングなのは、真菌がプロトコルの介在なしにNSAのネットワークに侵入し情報を傍受していたことだ。情報の意味などわかる必要はない。菌は巨大な神経ネットワークを構成し、そのネットワークが入ってくるデータに反応し、フィードバックを得るだけだ。そのフィードバックによって、自身に有利な結果をもたらす神経経路が強化されていく。ディープラーニングみたいなものだ。

 さて、問題はこの真菌にいかに対抗すべきかだ。NSAの上層部、政府、軍部で議論が戦わされる。真菌の大元である地域を核爆弾で焼き払うべきだという強硬派もいる。いっぽう、真菌のメカニズムを解明して、カウンターとなる菌を送りこみ、支配された人間を支配し直すプランも浮上する。しかし、それはあまりにおぞましいとニールは思う。菌が生存戦略のためにやっているにすぎないが、人間がおこなえば洗脳である。

 はたしてニールはそれ以外の最適解を導きだせるか? そして兄ポールとの関係は? 父チャールズは事態にどう関わっているのか? 人類規模の壮大なスケールの展開と、家族のあいだの葛藤が緊密につながり、めくるめくクライマックスへ突き進んでいく。

(牧眞司)

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