【今週はこれを読め! SF編】遍歴のなかで次々と物語内人物に重なる、ロマンチックな異界往還譚

文=牧眞司

  • ジャーゲン (マニュエル伝)
  • 『ジャーゲン (マニュエル伝)』
    J.B.キャベル,中野善夫
    国書刊行会
    3,960円(税込)
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 アメリカの怪奇幻想文学史を概観した資料を読むと、日本ではさほど知られていないものの、〈ウィアード・テールズ〉以前の時期に活躍した重要作家としてかならず言及されている人物がいることに気づく。ひとりはロバート・W・チェンバース、もうひとりがこのジェイムズ・ブランチ・キャベルだ。

 チェンバースが取りあげられるのは「黄衣の王」がラヴクラフトに大きな影響を与え、事後的に《クトゥルー神話》に組みこまれたからだ。それに対し、キャベルはどちらかというと評論家・文学研究筋からの評価が高い。代表作は、中世ヨーロッパの架空の国ポアテムを舞台にした長大な風刺ロマンス《マニュエル伝》。荒俣宏さんの『世界幻想作家事典』では、「典雅な文体に特徴づけられた散文の叙事詩を本流に置きながら、その中に詩編や音楽や家系図、それに加えて、空想上の地誌歴史までを加えて、1個の完全に自律的な文学空間を築きあげた」と紹介されている。

 本書『ジャーゲン』は、その《マニュエル伝》の一冊だ。

 詩人にして質屋のジャーゲンが異界へ入りこみ、多くの出会いと遍歴を経て、最終的に日常へ帰還するまでの物語である。

 彼にはアデーレという妻がいるが、どうも愛情は薄れているらしい。妻が姿を消してもジャーゲンは慌てるふうも悲しむふうもない。ただし、妻が他所にいるとわかったら、そこまで捜しに行くのが「男らしいふるまい」だと思っていて、それが異界に入りこむきっかけとなる。荒れ地を越えた場所にある洞窟へ妻が入ったから、自分も入るべきと考えたのだ。

 しかし、洞窟の中に妻はおらず、かわりにケンタウロスがいる。ケンタウロスは言う。「すべての神々の上に立ち、あらゆる生き物の上に立つ力として、〈不滅のコシチェイ〉がいる。万物を今あるように創ったのがコシチェイだ」。ケンタウロスはジャーゲンをその背に乗せて運んでくれた。

 その先で見つけたのが、金髪の美しい女性である。なんと、彼女はジャーゲンがかつて熱愛したドロシーではないか。いまは伯爵夫人になってしまっているドロシー。しかし、ここにいるドロシーは昔のままの姿だ。私が本当に愛した唯一の女性。

 ジャーゲンはこのドロシーを皮切りに、異界で次々に理想の女性と巡りあう。そのたびに、「自分が本当に愛するのは彼女だ」みたいなことを思うのだ。日常的な良識に照らせばなんとも不実な男だが、ジャーゲンのなかでは正当化されてしまう。どうやらジャーゲンはひとりの個人(近代的自我の存在)というよりも、なかば憑代的な存在らしい。出会った女性あるいは置かれた状況に応じて、神話や伝承の主人公と同一化してしまう。しかし、意識が完全に入れ替わるのではなく、ジャーゲンとしての連続性も保っている。そのあたりを説明的にではなく、彼自身のふるまいとして自然に描いてみせるのがキャベルの巧さだ。

 ジャーゲンは、ここにいる自分が「物語のなかの人物」なのだと、うすうす勘づいている。いや、彼だけではない。ジャーゲンは海辺で、昔なじみのホルヴェンディルとペリオン・ド・ラ・フォレと再会する。彼らもドロシーと同じく若いままだ。ホルヴェンディルはこんなことを言う。「俺たちは三人とも、作者が別々のスタイルで書いた別々のロマンスの登場人物として出会ったようなものではないだろうか」。

 外形的にはメタフィクションだが、おそらくキャベルがそうした構造よりも「ジャーゲンが遍歴を通じて知ること」に重きを置いている。「訳者あとがき」で中野善夫さんが指摘されているように、妻を探しに異界へ行く展開は、オルフェウスや伊邪那岐を思わせる。そういえば、オルフェウスも詩人だった。そして、この世界は匿名的な作者ではなく、〈不滅のコシチェイ〉という顔のある神(人格神)によって創造されたとされる。つまり、『ジャーゲン』は神話的・寓話的な色彩が濃い。

 また、キャベルが作品を発表した当時の状況を知っていないとわかりにくいところはあるものの鋭い風刺が仕込まれていたり、先行する文学作品に対する諧謔的言及がしのばせてある点も見逃せない。どことなくラブレー的でもある。

(牧眞司)

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