【今週はこれを読め! エンタメ編】一歩踏み出す勇気をくれる小説〜小嶋陽太郎『悲しい話は終わりにしよう』

文=松井ゆかり

 すべての読書好きは小嶋陽太郎の本を読むべきだ。この若き作家が一作ごとに進化を遂げていることをリアルタイムで実感できるから。これまではどちらかというとキュートさやユーモアが前面に押し出されていたが、本書ではこれまで以上に繊細で真摯な作風が印象に残る。

 物語は、「市川」と「佐野」のふたつのパートが交互に進むことで成り立っている。市川は信州大学生。大学附属図書館の小豆色のソファで過ごすことが日課のようになった(このあたりのエピソードは著者ご本人のプロフィールと多いに重なるところがあると思う。著作権エージェント会社であるボイルドエッグズのサイトにて連載中のエッセイ「今月のゆでかげん」などで、小嶋氏の日常が綴られている。ぜひ目を通されるとよろしいでしょう)。大学の学部オリエンテーションで知り合った広崎と友だちになった。広崎は父親の影響で高校までずっと野球一筋の人生を送ってきたが、東京の実家を離れたこともありこれからは音楽をやっていきたいと思っている。そんなふたりの目の前に吉岡という同じく新入生女子が現れる。吉岡を好きだという広崎の気持ちに気づいた市川は、彼の恋を応援する。

 一方、佐野は中学生。学校では父親よりも年下の上司の息子である藤井にいじめを受けている。ある日父親は自殺によってこの世を去った。そのことをわびるような態度をとった藤井を殴り、佐野はますます孤立を深める。もう学校に来るのをやめようと思った日の帰りがけに話しかけてきたのが奥村だった。奥村は勉強もスポーツもよくできて、誰とでも気さくに話せるタイプ。奥村は自分がひとりで活動している「放課後勉強クラブ」に佐野を誘う。なぜ自分のような人間と親しくつきあおうとするのか疑問を抱く佐野だったが、奥村との友情はかけがえのないものとなっていった。そんなある日、彼らのクラスに周りと決して打ち解けようとしない女子・沖田が転校してくる。沖田が「放課後勉強クラブ」の新たなメンバーとなって3人での活動が始まったが、奥村を交えずにふたりだけで行動することも多くなっていく。

 人間は簡単に損なわれる、肉体的にも精神的にも。その原因となるのは、同級生からのいじめだったり、家族からの虐待だったり、身近な人間からの行為による場合が多い。登場人物たちもみな、傷を負った人々である。彼らの心や体を傷つけるものの正体を知ることは、読者にとってもつらい体験になるだろう。実際、立ち直れないまま力尽きてしまった者もいるのだから。

 市川も佐野も、他のみんなも、おそらく何度となく疑問を抱いたと思う。自分はなぜここにいるのか、このまま生きて行くことに意味はあるのか、いつか答えは見つかるのか...。でも私は、たとえ答えが見つからなくても、ほんとうは意味なんてなかったとしても、彼らに生きてほしいと思った。他の人間たちに傷つけられたことは確かに苦しい経験だけれども、自分がそういう風にならないでいることは可能である。他人を平気で傷つけるような人間と自分は違うのだと思えれば、それは幸せの第一歩だ。自分が自分として生きることができるとしたら、その喜びは何物にも代えられないものとなる。自分の心と他人の心。どちらか一方でも自由にできたら、どんなに話は早いだろう。しかし、実際には相手の気持ちがわからないまま、孤独の中で生きなければならないこともある。それでも、だからこそ人と人とは理解し合おうと努力する、そのことこそが尊いのだと気づけたらいい。

 人間は悲しみと無縁に生きることはできない。命ある限り、悲しい話を完全に終わらせることはできないのだ。それでもそのときどきで目の前にあるつらさを乗り越えていけば、そのときどきの「悲しい話は終わり」にできる。そうやって自分の心と向き合っていくという経験を積み重ねていけば、苦しいことだけでなく幸せなことも誰かと分け合えるようになるかもしれない。いま現実に傷を負っている人も、もがきながらも前へ進もうとする登場人物たちの姿に触れて、自分から一歩踏み出す勇気を持てるといいと思う。

 小嶋陽太郎さんは、第16回ボイルドエッグズ新人賞受賞作となった『気障でけっこうです』(角川文庫)で2014年にデビュー。作家になられてまだ3年、しかも今年26歳。ただ年齢を重ねていればよい小説をかけるというものでもないということを改めて思い知らされた。さまざまな境遇の人々の心情を細やかに描く力を、この若者は手にしている。

(松井ゆかり)

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