【今週はこれを読め! エンタメ編】小説家と大家の探偵物語〜三木笙子『帝都の下宿屋』

文=松井ゆかり

 三木笙子といえば、男の友情と謎解きが好きな乙女たちから絶大な信頼を寄せられている作家である。私が読んだ限りでは、どの三木作品にももれなくこのふたつの要素が含まれていた。

 そういう意味では、三木作品の登場人物たちはシャーロック・ホームズの正統な継承者といえるだろう。本書のホームズ役は人気の小説家である仙道湧水。わがままで面倒くさい人物であるが、人柄からは想像できないような美しく典雅な文章を書く。そしてワトソン、というほどには推理の手助けをしていないけれども、相方のような位置にいるのが梨木桃介(名前に入っているのが私の好きな果物ベスト2ではないか。これで苺が入っていたら完璧だった)。彼は湧水が住む下宿の大家で、素晴らしき家事の才能を持つ。バディであり主従関係もあるという、主人公たちの多面的な関係性が楽しめるのも大きな魅力となっているに違いない。...と、乙女でなければ読者にあらず的な書き方をしてしまったが、男性諸氏にも臆せずお読みいただきたい。本書は4編からなる連作短編ミステリ。推理小説としてのおもしろさは、老若男女を問わず読者の心に訴えるものだと思う。

 明治時代はさまざまな価値観が転換した時期である。人々は刀を捨て、異国の文化や風習に触れ、新たなる政治や体制を受け入れた。そんな目まぐるしい時代にあって、ほんとうに落ち着けるのはふつうの穏やかな暮らしではないだろうか。湧水は傍若無人な性格が災いして何件も下宿を追い出されたり、担当編集者も幾度となく交替させるような難物である。しかし、桃介にだけは猫をかぶって嫌われないように礼儀正しく接している理由というのが、桃介の温かい人柄に加えて、彼の作る食事があまりにも美味であるためできる限り静修館に住み続けたいからというのが泣かせるではないか。静修館はもともとは桃介の祖母が始めた下宿屋であり、高い志はあれど生活は苦しい若者たち向けのものだという。たいていの下宿人は数年のうちに活躍の場を得て静修館を巣立っていくのだが、湧水は(売れっ子作家になったのに)なぜまだ留まっているのかと問われ「成功していることで下宿人の資格を失うなら、しばらく原稿など書かずにいますよ」と答えているくらいご執心なのだ。

 〆切をなかなか守れずにいる湧水のもとには、しかしながらやっかいごとがしばしば持ち込まれる。ほんとうなら〆切が押しているときにそのようなトラブルに関わっている暇などないのだが、桃介の知り合いが関係していたりすると湧水は弱い。結果的にはそれが刺激となったりいいヒントとなったりして筆が進むこともあるので、お互いさまともいえるかも。

 本書は、基本的には人情味にあふれたほのぼのとした小説だ。が、殺人がらみでこそないけれども、謎の中にはシビアなものもある。例えば、個人的にいちばん印象に残った作品である「障子張り替えの名手」。鉱物会社の精錬法を記した書類が紛失したのが物語の発端。盗難に遭った会社社長にしてみれば、特許に関わる内容のため、買い取りを申し出てきた米国の企業に知られないよう公にせずに書類を取り戻したい。冷静に考えてみれば、小説家が介入してどうにかなる案件ではない気がする。それでも、謎を解き明かしてくれと頼んできた社長である野上の娘・静子が桃介の知り合いでもあったため、湧水はしぶしぶ真相究明に乗り出した。屋敷に乗り込んで家の者たちに話を聞いてみると、書類紛失は身内の仕業としか思えない状況だったことが判明する。明治の御代、人々はいろいろな自由を得たとはいえ、女性に関しては自分で好きな道を選べるような余地はほとんどなかった。女たちが家やお金のために自分を犠牲にしている中からもしかし、旧弊な制度や考え方から解き放たれて生きて行く者が現れるであろうことを期待させるラストが心強い。

 本書でも主要人物たちはほとんど男性だったが(デビュー作『人魚は空に還る』をはじめとする著者の代表作である〈帝都探偵絵図〉シリーズのあの人も登場しますよ!)、男女に等しく注がれた著者の優しいまなざしが心を温める。静修館がいつまでも安らげる場所であってくれるといいな、もっと彼らの物語を読みたいなと切に願う。

(松井ゆかり)

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