【今週はこれを読め! エンタメ編】亭主関白な夫の成長物語〜坂井希久子『妻の終活』

文=松井ゆかり

 夫と自分のどちらが先立つだろうかということについては、ときどき考える。私の知る身近な夫婦(実の両親や祖父母)は圧倒的に妻が残されるというパターンが多かったため、これまではなんとなく自分たちもそうなるのではという気がしていた。しかし、こればっかりはどうなるかわからないということを、この小説によって思い知らされた。

 『妻の終活』というタイトルが示す通り、本書は主人公・廉太郎の妻である杏子が亡くなるまでの日々を描いた作品である。廉太郎は絵に描いたような昭和風の亭主関白な夫。今年70歳になる廉太郎は、大学を出て以来勤め上げた製菓メーカーで定年後も嘱託として働き続けてきた。長女・美智子と次女・恵子というふたりの娘はすでに家を出ており、春日部にあるマイホームで2歳下の杏子とふたり暮らしをしている。

 物語は、「明後日、病院について来てくれませんか」と杏子が廉太郎に切り出すところから始まる。杏子は虫垂炎の手術をして2週間前に退院したばかりだった。我慢強い杏子がそんな頼み事をした意味を考えることもなく、廉太郎は仕事があるからとすげなく断ってしまう。しかも居丈高に。さてその日、廉太郎が帰宅してみると、杏子がいない。杏子は診察後、病院に付き添ってくれた美智子が家族と暮らすマンションを訪れていたのだった。そのまま美智子の家に泊まるので、杏子が戻ってこないと知った廉太郎はおかんむりだ。廉太郎は家事や育児は妻に任せきりにしていたタイプの夫であり、ここでも自分の夕食の心配ばかり(あとは、孫たちに男らしさを押しつけようとしたり)。それから4日間杏子は戻らず、廉太郎のイライラも最高潮に。そこへ、杏子が美智子を伴って帰宅した。不機嫌な気持ちの治まらない廉太郎に、重大な事実を告げる役割を担ったのは美智子だった。杏子ががんを患っているのだと...。

 本書は、長年連れ添った妻を喪おうとしている夫の成長物語である。家事など何ひとつできず、家庭より仕事優先で、男尊女卑的思考の廉太郎が、妻や娘たちとぶつかりながら新しい考え方を獲得していく過程が描かれている。廉太郎は決して冷酷な人間なわけではない。通勤電車で見かけた就活中と思われる若い女子や帰宅途中にたまに見かける同年配の男や趣味の釣りでつり上げた魚に対しても思いやるような面も持ち合わせている。身内に対してだって「望むことは、もうそれほど多くはない。娘と孫たちが元気で、自分たち夫婦もできる限り健康で長生きすること。言葉にしたことは一度もないが、いついかなるときも帰る場所でいてくれた杏子には感謝している」という気持ちはある。ただ、ひたすら無神経であることが問題なわけで。

 家事ができないのはなんとでもなるのだ。数をこなせばできるようになる可能性があるのだから。しかし、年齢を重ねるほど身についた考え方を変えるのは難しい。"家のことなど男のやるべき仕事ではない"と主張するような人間には、家事にトライするきっかけを与えることすら困難だろう。同様に、"男は男らしく、女は女らしくしろ"といった考えを曲げない人間は、自分が周りの人々を傷つけていることがわからない。私の両親世代だったら"家族の意見を聞く耳など持たない夫、あきらめて文句も言わずかしずく妻"というのはステレオタイプといってもいいほどありふれた存在だったと思う。若い世代であっても、そういった意識がそのまま引き継がれているケースは決して少なくない。恵子が廉太郎に向かって発する、「時代と共に、価値観もアップデートしていかなきゃ」という台詞が重みを持って胸に迫ってくる。

 50代前半でまずまず健康体の身としてはまだそこまで深刻に死というものを身近には感じられないが、いつか訪れる最後の日に向かってできる限り真摯に生きていくしかないかと思っている。それは家族がいようがいまいが同じことで、死について考えることは生について考えることに他ならないといえよう。少しずつ進歩してきた廉太郎にとっては思いのほか苦い結末が待っているのだが、申し開きできない類の彼の過去が原因なのだった。自分がいよいよ死に直面するとき、あるいは亡き人を思うとき、後悔はできれば少ないに越したことはない。私も肝に銘じて残りの人生を進んでいきたいと思う。読者のみなさまも廉太郎を見習い、もしくは反面教師として、お読みいただければと願う。

(松井ゆかり)

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