作家の読書道 第86回:枡野浩一さん

口語調の短歌で、今の時代の人の気分を的確に表現し、圧倒的な人気を得ている枡野浩一さん。短歌以外にもエッセイや漫画評、小説などさまざまなジャンルで活躍、その世界を拡大させ続け、さらには膨大な知識量でも私たちを刺激してくれています。相当な読書家なのでは、と思ったら、ご本人はいきなり謙遜。しかしお話をうかがうと、意外な本の話、意外な読み方がどんどん出できました! 爆笑に次ぐ爆笑のインタビューをお楽しみください。

その1「運動が苦手で読書に傾く」 (1/6)

――枡野さんは小説も漫画も幅広く読まれている印象ですが。

枡野 : ずっと本が好きだと思っていたんですが、最近まわりにものすごい本好きが多くて、実は自分って本が好きではないんじゃないかと疑っているんですよ。今、小説を書いていても、すごく苦手なことをやっている感じで自信がなくて。それで小説自体が好きじゃないんじゃないかと思い始めているところです。

――いやいや、そんなことはないはず。幼い頃のお話からおうかがいしたいのですが。

枡野 : 父が理系なので、その影響なのか絵本よりも科学読み物をよく読んでいました。それから学研の『科学』と『学習』をとっていたんですが、年に1回くらい読み物特集号が付いてきたんです。いろんな作家さんが書いていて、面白い作りだった記憶があります。姉と妹がいるので、3学年分読めたんですけれど、今思うと姉の時代のは面白くて、僕の時代のはちょっとつまらなくなって、妹の時代のはつまらなかった。質が下がっていった気がします。あとは新学年になった時、学校で教科書をもらうと一気に読んでしまう人っていますが、僕がそれだったんですね。『ごんぎつね』の結末が気に入らなくて、急にきつねが生き返る話を自分で教科書に書き足して、みんなに読ませたりしていました。

――クラスの中でも活字好きなほうだったんでしょうか。

枡野 : それ以前に、運動が大嫌いだったんです。今書いている小説も、運動ができないことがテーマです。男で運動ができないと、まず人生の半分がダメになる。うちは親が厳しかったので、テレビも漫画も禁止。それで何もすることがないから、自然と本を読むようになったんでしょう。テレビ観ないから、キャンディーズとピンク・レディーの区別もつかなかったんですよ。作詞や漫画評を仕事にするようになったのも、その反動ですね。生まれたのは西荻窪なんですが、そのあと転居を重ねて、小学校5年生くらいからは小平に住んでいたんですね。図書館が充実している市だったので、ちょっと足を伸ばすと3軒くらい図書館があった。図書館にはやたら行っていました。それが小学校から高校くらいでしょうか。だから、小平図書館にたまたまある本を読んでいた、というか。

――記憶に残っている本はありますか。

枡野 : 印象に残っているのは佐野美津男の『午前2時に何かがくる』。伏線がちっとも生かされないんですよ。午前2時にいったい何がくるんだろう......と思わせておいて、それもたいしたことないし。謎がいくつか未解決な感じで終わってしまう。でもそれが印象に残っていて、今でも午前2時になると時々思い出すんです。本ってとんでもないな、と子供心に思いました。復刊ドットコムで、これに投票したんですよ。とんでもないといえば、星新一も大好きでした。何かの雑誌に「おーいでてこーい」のダイジェストが載っていて、あれの続きはどうなるんだろう、いつか知りたい、と思っていたんです。あるとき星新一のショートショート集に出会って。そしたら、ダイジェストだと思っていたのが、実は作品の全部だった。衝撃でした。星新一を子供のころに読んでいた人って多いけれど、僕のショートショート好きは一過性じゃなくて、高校の文化祭でもショートショートの研究をしました。いろんな人が書いているんですよね。SF作家はたいてい書いていて、豊田有恒とか高井信とか。ミステリの生島治郎のも、Mくん事件を予言してるみたいで凄かったし。海外ならO・ヘンリーとか。大西巨人の息子さんの大西赤人も若いときにショートショート集を出してました。川端康成の『掌の小説』もまあショートショートだし、稲垣足穂だって1行だけの物語を書いていますよね。作家の名前に関係なく、図書館をハシゴして本を探して......。筒井康隆も僕が高校生の頃から全集が出始めていて、短いのも長いのも片っ端から読みました。作品というより、作家を追いかけるタイプなので、星新一と交流のある作家のもの、たとえば歌人の斎藤茂吉を父に持つ北杜夫とかも読むようになった。でも、いわゆる本好きな人たちが読んでいるような作品は、あんまり読んでいなかったかもしれない。

――先入観なくいろんな作家さんを読めたということでもありますよね。

枡野 : あのころ目立ってきた作家だと、清水義範とか大好きだったな。『永遠のジャック&ベティ』や『ジャンケン入門』......。ちなみに僕が高校の時に、山田詠美がデビューしたんですよ。俵万智ブームもあった。島田雅彦の『僕は模造人間』とか山田詠美の『ぼくは勉強ができない』とかは、刊行時にリアルタイムで読みました。

――いわゆる古典作品は。

枡野 : 普通に太宰治とかは読んでいましたよ。爆笑してしまったんです。『人間失格』って結構おかしい話でしょう、コミカルで。司書の先生に「これ本当におかしかった」って言ったら「そうだよね」って、意気投合したことを覚えています。作者も笑って書いているとしか思えない。主人公が帰ってきて、子兎とたわむれている母娘を見て、こんな幸せな親子に自分は関わっちゃいけない、とかって思う。ふわふわした子兎とたわむれている姿を見て、絶望するんですよ? ギャグとしか思えない。僕は太宰本人も半分ギャグとして書いていた、という説を唱えてるんです。お茶目な人だったんじゃないかな、勝手な想像ですけれど。

――ご自分で何か作品を作ろう、という発想は浮かびませんでしたか?

枡野 : 高校では最初、文芸部に入っていました。自分で印刷機をまわして、雑誌を作っていたんです。ワープロも早い時期から持ってたんですよ。普通、高校生はバイトをしてお金をためたらバイクとかギターとか買うのに、僕はワープロを買ったんです。お金は親をうまく騙して〈笑〉。32ドットという精密な文字の「書院」、当時は画期的なワープロでした。高校でも、「ピコワード」っていう1行ずつ印字するワープロを、2年生のときに学校に交渉して買ってもらったんです。そういう交渉が、うまかった(笑)。当時は文芸部の作品集も手書きで、先輩なんかは詩を書くのに「ひらがなをきれいに書く定規」を使っていたんです。ひらがなは定規で書くからきれいだけど、漢字だけ手書き......。そういう資料を持っていって、「部員はこのように苦労しているんです!」ってアピールして。

――枡野さん、高校で文芸部だったんですか。

枡野 : 1年生で部長になったんですが、それは単に部員がいなかったからなんですね。3年生がいて2年生がいなくて、1年が3人とか。それですぐ部長になって、ひとりで活躍していたんです。ペンネームを何個も作って、あたかも部員がたくさんいるみたいなふりをして。一生懸命やっていたら、同情して入ってくれる人が増えたんですが、そうしたら自分のやりたいようにできなくなっちゃって、辞めちゃったんです。ワガママなんです(笑)。このころは暗い詩を書いたりしていました。卒業する頃に、ショートショートや詩をピックアップして自選作品集を手作りしました。ものすごく恥ずかしいペンネームなんです。それ、今もとってありますよ。

――どんなペンネームですか。

枡野 : いや、とても教えられないです......。自分だと思いたくないような忘れたい名前。自選集は今読み返すと、あとがきがやたら長かったりするんですが、編集も造本も、高校生がひとりで作ったにしては大変よく出来てると思います。ペンネーム以外は......。

――ペンネームが気になります......。

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プロフィール

枡野浩一(ますのこういち) 1968年、東京生まれ。歌人。短歌、作詞、現代詩、漫画評、脚本、小説など、幅広く執筆活動をしている。枡野書店の詳細はhttp://shigatsu.jp