第93回:佐藤友哉さん

作家の読書道 第93回:佐藤友哉さん

19歳の時に書いた作品でメフィスト賞を受賞、ミステリーの気鋭としてデビューし、その後文芸誌でも作品を発表、『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を受賞した佐藤友哉さん。もうすぐ作家生活10周年を迎える佐藤さんの、「ミジンコライフ」時代とは? 小説家を志したきっかけ、作家生活の中で考え続けていること、その中で読んできた本たちについて、ユーモアたっぷりに語ってくださいました。

その3「書きたいという衝動」 (3/6)

――自分で何か書く、ということを意識しはじめたのは。

佐藤 : そこがあいまいな状態なんです。というのも、書きたいという衝動が一気に来たわけではなく、脈拍のように、時々ピョッと出てくる、というものだったんです。最初の創作衝動は、『パラサイト・イヴ』を知るきっかけとなったラジオ番組ですね。水曜日に大塚英志さんと白倉由美さんのご夫妻が番組をやっていたんです。その時、名前は知らなくて......漫画の『魍魎戦記MADARA』は知っていたんですが、その原作者が大塚さんである、みたいに連結して考えてはいなかったんですね。まあ、あのお二人が番組を作るなら傑作になるのは当たり前なんですが、そんなことも知らない状態で普通に聴いていまして、そのなかで、白倉さんがシナリオを書かれて、静かなピアノの音楽をバックに流して、女の子が朗読するという、リーディングストーリーなる試みをされていたんです。小説のような小説でないような、白倉作品に通じるなんともいえない世界観を、特にハッキリ喋るわけでもなく、ふわふわふわーっと読んでいる。男役も老人役も、すべて女の子が読むんです。それを聴いた時も、緒川たまき級の衝撃を受けました。

――またしても声にやられたわけですね。

佐藤 : 女の子の声に弱いだけという気がしなくもないんですけれども(笑)。でも朗読にはやられていますね。朗読という文化も知らなかったので、こんなすごいものがあるのかと思いました。その朗読にガツンとやられて、こんなのを作ってみたい、とは思ったんです。でもいきなり文章を書けるわけはなく、衝動だけが残っていました。その後、講談社ノベルスを読んでいた高校生時代に、こんな面白いものを書いてみたいな、と、第2の創作衝動がやってきました。何よりメフィスト賞が大きかったですね。講談社ノベルスが原稿を募集しているらしいというのは、本を買った時にはさまれている栞にメフィスト賞受賞作の一覧があるのを見て、なんとなくは理解していました。なので大学ノートに小説を書いたり、家に誰も使っていないワープロがあったので、それを使って書いたりもしました。

――それはホラーや本格の影響を受けたものでしたか。

佐藤 : そうなるしかないですね。そこでいきなりハートフルな物語を書いたら、自分は今まで何を読んで何を学んできたのかと(笑)。それ以外のものを書くのは原理的に無理です。やはり培ったものからしか出てこないものです。

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――応募をしようとは思いませんでしたか。

佐藤 : それこそ、高校生でデビューできたらオレ格好いい、みたいに思いながら書いたりはしていたんですけれど(笑)、そのときは小説の応募先を知らなかったんです。大塚さんが『多重人格探偵サイコ』の小説版を『ザ・スニーカー』という雑誌に書かれていて、そこでスニーカー大賞を知り、こういう文化があって、みんな新人賞を経由して小説家になるんだなと推測を立ててはいましたが、かんじんの『メフィスト』に関しては、いかんせん北海道の田舎なので、雑誌そのものが見当たらないんです。だから応募先が分からない。講談社ノベルスの巻末に載っている編集部の電話番号にかけてもいいのかも分からない。かけたら怒られちゃうんじゃないかと思っていました。

――雑誌の存在を知ったのは。

佐藤 : 高校時代の後半に、ようやくデパートに一冊だけ置いてあるのを見つけて、うわあ! 本当にあったー! と大慌てで買いました。それで読んだらやはり、メフィスト賞というものがあったんです、いや当たり前なんですけど(笑)。メフィスト賞の選考は、巻末の編集者座談会で公開されていて、そこで選考委員がいないということも知りました。例えば他の賞なら、選考委員はナントカ先生とナントカ先生、みたいに名前が並びますが、そのナントカ先生の小説を読んでいないので、その人たちが面白がってくれるのか分からないところに送ってもしゃあない。それに、賞の色というものがメフィスト賞にはあるけれど、他の雑誌からは感じ取ることができなかったんです。講談社ノベルスの空気や切実さをきっかけとして、僕は勝手に連帯感を持っていたので、書いた小説を送っても通るんじゃないかという気分になっていました。編集者の座談会でも、面白かったら即本にします、と書かれていて、そんな優しいことをしてくれるのか、とも思いましたし。その座談会は、編集者の観点から冷たいことをバンバン言うんですが、「でも頑張ってね」みたいな不思議な優しさも感じました。編集者一人ひとりのキャラが立っていたんですよね。もちろん座談会用に作った顔でしょうけれど、彼らの顔が見えたんです。自分の偏った読書遍歴の中で培ったものを渡しても、この人たちなら分かってくれるかもしれないと思いました。なぜならメフィスト賞受賞作を読むと感激するくらいに面白く、どれも何かしら僕にもたらしてくれているので、こんな本を出してる人たちなら、きっと通じるだろうと思ったんです。書きたいという衝動と、デビューして本を出したいという衝動がちょうど合体したのが、『メフィスト』の座談会を読んだ前後でした。

――つまり高校生の頃に、具体的に作家を目指し始めたわけですね。

佐藤 : 楽器ができる友達がいればよかったんですけれどね。ギターを教えてやるよ、という先輩がいてくれたら、作家なんかにならなかったといまだに思っています。導き手がほしかったですね。それでも、あんなに貧しい青春で、よく頑張って作家になれたと自分を褒める瞬間があります(笑)。本当に小説しかなかったんですよ。高校時代は友達もいたしアルバイトもしていましたが、彼らの文化を吸収することもなく、この本をパクって小説を書いてみようとか、この本とこの本をくっつけて小説を書いてみようとか、そんなことをぐるぐるやっていましたね。

――そのときはまだ応募はしていなかったんですね。

佐藤 : それまでは学生気分で、まあ実際に学生だったわけですが、30枚書いて満足、とか、500枚書くつもりが4行で終わる、というのがザラでした。500枚を4行で表現しちゃったぞ、という...。

――500枚が超短編に(笑)。

佐藤 : そんなデータがフロッピーディスクにどんどんたまっていって、で、結局何もできずに高校を卒業して、大学には行かずにフリーター生活に入りました。そこでいよいよ、自分に未来がないことを完璧に認識したんです。友達もいなし、仕事もない、ああこれはダメだ、職業として作家にならないとまずい、となったんです。『メフィスト』の座談会を読むと、新人が続々と出てきて、10代の子が褒められたりしている。それを読んで「他の奴を褒めるな! オレが書くから待っててくれ!」という切迫感がものすごく出てきたのが18歳、フリーターと無職をくり返していた時期ですね。いい加減に小説を書かないと、ミジンコのような人生で終わってしまう! と。とはいえ、小説を書く能力は500枚のつもりが4行で終わる程度から成長していないわけです。いよいよ困ってしまいました。

――その状態から、サリンジャーの影響を受けたと思われる「鏡家サーガ」は、どのように生まれたのでしょうか。

佐藤 : ミステリを読んでいるとき、さかのぼって坂口安吾とか、加田伶太郎名義の福永武彦とか、夢野久作あたりも読みました。でもそれは文学ではなく、ミステリの延長にあったんです。夢野久作はその中でも好きな作家でしたので、そこから文学に行こうと思えば行けたのでしょうけれど、彼らの名前すらミステリという大きい枠に入れてしまっていたので、太宰治や夏目漱石に飛んだりすることはありませんでした。でも、その頃に、サリンジャーを読んではいたんです。森博嗣さんがよく引用されていたので、じゃあ、ということで。......なんだか「じゃあ」ばっかりですね(笑)。文学知識ゼロの僕は、サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』の作者ということすら知らなかったので、最初に『ナイン・ストーリーズ』を買い、次に『フラニーとゾーイー』を買ってしまいました。明らかにサリンジャーを嫌いになりそうな読み方ですが、幸い、面白く読めました。なるほど外国人も面白いのか、ということで、新潮文庫を読み始めるようになりました。

――角川書店、講談社から新潮社へ(笑)。

佐藤 : 角川ホラー文庫は文庫という風には認識していなかったので、はじめて「文庫を読んでいる!」という感覚を持ちましたね。サリンジャーはやっぱり、グラース家のきょうだいたちのキャラクターがすごく立っていました。サリンジャーは青春小説ですから、10代の終わりに近づいているとはいえ、ミジンコのような毎日を送っているとはいえ、いちおう青春真っ盛りではあったので、ドンピシャでしたね。純粋な意味での青春小説を、角川ホラー文庫も講談社ノベルスも当時は回収してはいなかったんです。なので青春小説はサリンジャーがはじめての作家でした。このように、自分の中でサリンジャーが大きなウエイトを占めいる時期と、「デビューしないとミジンコライフが永遠に続くよ」という時期が一緒に来たわけです。

――それで小説を書かなくてはならなくなって。

佐藤 : 20歳までになんとかしようと焦っていたんですね。でも、今さら1から考える時間はない。そこで考え出した作戦が、フロッピーディスクにある小説の断片を混ぜこんでしまえば、分量的には4~500枚にはなるだろうというものでした。自分の小説を自分でパクったんです。それなら自分の青春汁が凝縮するだろうし(笑)、『メフィスト』の編集者の誰かには届くに違いないと思いました。それで自分の小説をミキサーにかけて、絞り取って、グラース家の日本語訳として「鏡家」というお皿を作って、そこに凝集した青春スープを注ぎ込んで、19歳でやっとこさ1作完成させました。

――それがメフィスト賞を受賞した『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』なんですね。じゃあ、その時はサーガにする予定はなかったのですか。

佐藤 : 青春汁は『フリッカー式』ですべて使い果たしてしまったので(笑)。40代や50代のミステリ作家の方が「今回の新作で使ったトリックは学生時代に考えていたものなんです」とおっしゃることがありますが、本当にすごい!!!!!と思います。僕にはないです。

――受賞の知らせを受け取った時のことを覚えていますか。

佐藤 : てっきり『メフィスト』の座談会で、「受賞です」とか「ダメです」とか発表されるんだと思っていたんです。でも、毎回読んでも『フリッカー式』の「フ」の字もなくて、これは郵送事故だ、郵便局はなんとかしてくれるんだろうか、と真剣に悩んでいました(笑)。『フリッカー式』を書いていた頃は、バイトの面接に行くと嘘をついては図書館で大学ノートに書いていたのですが、応募後はバイトを始めて、それなりにミジンコライフを楽しんではいたので、ミジンコなりに幸せな人生だからいいやと諦めかけていました。第19回メフィスト賞で舞城王太郎さんの受賞が発表された時は、もう完璧に諦めていましたね。その後、ある日バイトを終えて夜に帰宅したら、家族に「講談社から連絡あったわよ」と言われて。しばらく待っていたら再び電話がかかってきて、それが講談社ノベルスで担当となる太田克史さんでした。座談会の出席者はアルファベットで表記されているんですが、太田さんはJだったんです。それで、Jの中の人だ! 有名人だ!! すげー!!! と盛り上がってました(笑)。やっぱり分かってくれるとしたらJだと思っていたんだよ、と予想していたので、嬉しかったです。電話では、早く次の小説を書け、年に3、4冊書かないと埋もれてしまうからよろしく! みたいなことを言われました。「何好きなの?」「何読んでるの?」「何書いてるの?」「じゃあよろしく!」ガチャン、と、嵐のような電話でした。そういえば受賞が決まったのかちゃんと聞いていなかったけれど、どうやら本は出るようだと思いました。

――最初の新人賞の受賞の連絡って、すごく嬉しい体験だと思うのですが、ちょっと違ったみたいですね(笑)。

佐藤 : もちろん嬉しかったんですが、キョトン・ポカンみたいな状態でした。その後の『メフィスト』の座談会で名前が出たので、ああ、詐欺じゃなかった、と安心しました。家族はずっと、息子が"出す出す"詐欺に遭っていると心配していたはずです。

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