第107回:百田尚樹さん

作家の読書道 第107回:百田尚樹さん

現在、デビュー作の『永遠の0』が大ベストセラーとなっている百田尚樹さん。放送作家として『探偵!ナイトスクープ』などの人気番組を手がけてきた百田さんは、本とどのように接してきたのでしょう。50歳を目前にして小説を書き始めたきっかけ、そして小説に対するこだわりとは。刊行前から噂となっている大長編についても教えてくださいました。

その4「放送作家になり、読書も習慣に」 (4/6)

――在学中にテレビに出演されたとか。

百田:『ラブアタック!』という番組です。ある晩友達の家にみんなで遊びに行ったら「明日『ラブアタック!』出るんや」と言うので「えーすごいなー見に行くわ!」となって。当時の関西の大学生には絶大な人気があった番組なんです。学生視聴率70、80%いってたと思います。その頃の関西は視聴者参加型の番組が多かったんですね、『プロポーズ大作戦』とか『パンチDEデート』とか。『ラブアタック!』はすごくきれいな女子大生がかぐや姫という称号を与えられて台の上の座っていて、その愛を勝ち取るためにアタッカーと呼ばれる男子学生たちがいろんなゲームや自己PRをしたり、歌を捧げたりするんです。それで一人だけ頭の上でくす玉が割れたらカップル成立で、後はみんな落ちるんですけれど。僕の友達は愛を勝ち取るのは二の次で、ひたすら笑いを取っていたんです。それで、いやこんな面白いことあったんか、これは僕も出なあかん、と思ってディレクターに「必ず笑わせますから出させてください」と言ったら「それやったら出てくれ」と言われて。それで出て、大爆笑をとったんです。何週間に1回か、そういう学生が出てきて、くす玉が割れるわけはないんですけれど、爆笑をとる。そういう奴はみじめアタッカーという称号をもらって、何か月かに1回、みじめアタッカー大会があるんです。毎回番組を見ながら「今度は何々大学のあいつが来るのか、あいつおもろかったな、負けられんなー」なんて思って新ネタを用意してました。

――百田さんはどんなことをして笑いをとったんですか。

百田:しょうもないことです。例えば、当時はゲタをはいた学生も多かったんですが、僕もゲタをはいて登場してトコトコ出ていって、途中で鼻緒が切れてまともに転んで、起き上がったら鼻血が出てる。それでみんななんちゅうアホや、と思うんです。

――え、演技なんですか。鼻血も?

百田:そうです、絵の具をしこんでおくんです。自己PRも緊張して何を喋ってるのか分からない、歌を歌っても歌詞を間違える。

――それも演技ですか。

百田:はい。でも、ああ、あの人緊張してかわいそう、と思った人も多かったようで、ファンレターも200通くらいきました。

――もともと笑いとることに対してこだわりはあったんですか。関西とはいえ、プルーストを読んでいるようなお父さんのいる家庭で育ったのに。

百田:関西の笑いのスキルは高いですよ。親父も笑いをとるのが好きやったんです。1日中ボケたことばかり言ってましたよ。会社に行くのに「いただきまーす」と言って出かける親父やったんです。もう亡くなったんですけれど、晩年はボケたんです。でも普段からボケてるから家族は分からなかった。さすがにこれはおかしい、と気づいた時はかなりきてました。若い時にボケをかましてなかったら家族もはやく気づいていたのに。自業自得ですわ。

――お父さん、魅力的な方ですね。で、みじめアタッカー大会にも出るようになって。

百田:『ラブアタック!』の歴史のなかでは伝説的なみじめアタッカーと言われています。当時あの番組に出た人たちは一流大学の人もたくさんおって。最初に出た友達いうのは今弁護士をやっています。みじめアタッカーではNHKや日本テレビのアナウンサーになった奴もおるし、かぐや姫でタレントになった人もおるし。今でも何人かのみじめアタッカーとは親交があって、一流会社の重役とかいっぱいいます。不思議な友情やなと思ってるんですけれど。それで、大学を5年で辞めた時に、テレビのディレクターやプロデューサーに「キミは面白いから放送作家をやらないか」と言われたんです。放送作家なんて職業があるとは思ってもいなかったけれど、何もやらんよりいいわと思って始めました。でもアルバイト気分でしたね。仕事というのは朝起きて出社するものと思っていたのに、お昼くらいとか深夜に会議を2~3時間したらもう終わりで、それも週に2日か3日しかない。ヒマな時間がすごく多かったのですが金もないし、過ごしようがない。毎朝起きて散歩しても、長時間過ごせるわけではないから、それで本を読み始めたんです。

――おおー。ここで読書生活が!

百田:お昼近くに起きてズボンのポケットに文庫本を一冊いれてトコトコ散歩して、いい喫茶店があったら入ってコーヒーを頼んでずーっと本を読み続ける。そうやって本を読み始めたのが23歳やったと思います。それから30歳くらいまでの間にたくさん読みましたね。年間2~300冊くらい。いちばん読んだ時期です。

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――どんな本を選んでいたのですか。

百田:金がなかったから文庫が多くて。古典が多かったです。ありあまる時間はあるというても、おもんない本を読むのに時間を使うのは嫌やったんです。そうすると名作といわれているものから選ぶんですよね。外国の古典が多くて、たまに日本の名作や現代の小説を読んでいました。それでこの人面白い、と思ったら追いかけていきました。その頃は井上靖さんを結構読みました。いちばんハマったのは丸山健二さん。すっごい好きです。現代文学のすごさにはじめて触れたのは丸山さん。デビューしてから10年くらいの作品は全部読みました。デビュー作の「夏の流れ」は綿矢りささんに破られるまでは芥川賞受賞の最年少記録だったんですよね。僕がもっとも震えたんは『三角の山』。恐ろしい名作や思いました。保守的な村で、10数年前によそ者と不倫スキャンダルを起こした上に恋にも破れて村中の笑いものになって出奔した姉が、突然帰ってくるんです。村いちばんの豪邸を建てて、その棟上の日に帰ってくる。その半日の出来事を弟の目から書いている。台詞のカギカッコも一切なく、固有名詞も一切ない。いつの時代の話かも分からない。文字だけで描けるイメージの強烈さがすごかったですね。あとは吉村昭さんの『破獄』。大傑作やと思います。実在の、日本にいた脱獄王をモデルにした小説なんですけれど、生涯で脱獄を4回やっているんです。彼は脱獄するってみんな知ってるから、彼のためだけに作った独房に入れたりするんですけれど、それでも抜ける。超人です。「これ事実か!」と思いました、最初。でも読み進めていると、これは単なる脱獄本ではなくて、もっと偉大な人間の物語やなと思って。いかなる絶望的な状況においても決して諦めずにとことん闘う、そういう男の偉大な不屈の物語なんやと思わせるんです。

――でも、罪を犯したから刑務所に入ったんですよね。

百田:そうなんですよ。無実の罪なら格好いいのに、犯罪そのものは実にちゃちなんです。でも人間の潜在的な能力って、誰が何を持っているか分かりませんよね。つまり、作品では本名を明かしていませんが、この白鳥由栄という男は、本当にくだらん強盗事件を犯さなかったら、すごく平凡な人生を送ったと思うんです。ところが刑務所に入ったことで、とんでもない才能に目覚める。超人なんですよ、彼は。何万人に一人といないんです。脱獄した後何年も、どうやって脱獄したのか誰にも分からない。手錠は針金一本で簡単に外してしまう。毎日毎日食事の時の味噌汁を口に含んでおいて、それを監視口の鉄にかけて少しずつ錆びさせて外す、なんてことをするんです。看守との心理戦もあるんですが、看守をフラフラのボロボロにさせてしまうんです。最後に府中刑務所に入れられるんですが、そこの所長がああ、えらいのが送られてきた、俺の経歴ももう終わりやーと嘆くんです。どんなことをしても脱獄されるやろう、って。その時に所長がどうしたか。これがまたドラマなんですよ。ノンフィクションは事実の強烈さがありますが、これは事実を超えた精神の寓意性を感じます。『破獄』は偉大な文学やと思います。

――そういえば海外の古典も読んだということで、『罪と罰』は読み返したんですか。

百田:読み返しました。普通に面白かったです。でも僕の小説に対する姿勢にもひっかかってくるんですが、100年前なら面白かったかな、と思いました。ドストエフスキーは事実にあった事件をモデルにしたらしいですね。今でも現実にあったおぞましい事件を小説にされる方がおりますけれど、僕はそういうのはドストエフスキーの時代に終わったと思っているんです。当時はテレビもネットもなくて、新聞にも通り一辺倒のことしか書かれない。今のジャーナリズムとはまったく違って人々が情報を享受できないという時代だっから、作家の使命はジャーナリストの側面もあったと思うんです。犯罪の裏にあったさまざまな社会的な問題を小説で描くのが使命でもあった。でも今、これだけ情報が手に入りやすいうえに、優れたノンフィクションライターがいっぱいいる中で、フィクションの作家が現実をモデルにして人間の嫌さ、醜さを手軽に書く意味が僕には分からないんです。ネットを見れば、人間のおぞましさが分かる話が山のように出てきます。だからこそ小説で描かなければあかんのは、人間の醜さではなくて、人間の素晴らしさやないかと思うんです。『罪と罰』も、最後はそれを描いている。やっぱりドストエフスキーは偉大な作家やと思います。

――実際の事件をベースにした小説が、人間の醜さ、おぞましさを書くことを目的にしているとは限りませんよね。

百田:でも小道具借りただけやないか、と思うものが多いし、そういうものが売れるんです。この小説はあれをモデルにしてるとなったらワイドショーが紹介するから、宣伝になるんでしょうけれど、それは安易です。やはりフィクションで勝負しないと。

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