第151回:奥泉光さん

作家の読書道 第151回:奥泉光さん

芥川賞作家ながらミステリやのSFといったジャンル小説の要素を多分に含み、時にはユーモアたっぷりの作品も発表してきた奥泉光さん。小学生の時に出合い、作家としての自分の原点となった2冊の作品、大学でハマった読書会、小説家について大切なことなど、読書にまつわるさまざまなお話をうかがいました。

その4「小説家のスタンス」 (4/6)

――小説を書くきっかけは何だったのですか。

奥泉:先ほども言いましたが、キッペンベルグというドイツ人の『古代ユダヤ社会史』を紺野馨さんと共訳したんです。それに1年くらいかかったんですね。それで疲れ切ってしまって。学術書の翻訳ってつまらなくはないけれど、大変だし調べなくてはいけないことも多いし、もっと何か自由に文章を書いてみたいという欲望を喚起させられたんです。漱石はイギリス留学の成果の集大成として文学論を書きましたが、その時にもっと伸び伸び書こうとして書いたのが『吾輩は猫である』なんですよね。神経衰弱を治すために書いたと言われている。僕はそこまで参ってはいなかったけれど、でも同じように伸び伸び書いてみたいという気持ちがありました。ちょうど高橋源一郎さんが「小説は何を書いてもよい」ということを言っていて、そうなんだとも思いました。それで自分でも書いてみることにしたんですが、実際書いてみたら自由じゃなかった(笑)。自由になるためには技術が要ることを知りました。音楽だって同じですよね。テクニックがないと自由な演奏ができない。だからすぐに小説家になれるわけでないとは分かっていましたが、でも何行か書いてみた時に、自分はずっとこういうことをやっていくと思った気がします。
僕も昔は小説を書いた人が小説家になると思っていました。今はそうではなく、先に小説家になって、それから書くんじゃないかなと感じています。人は世界に対して小説家というスタンスをとることで小説家になる。僕は学者になろうとしましたが、その時のスタンスと小説を書こうとした時のスタンスが全然違ったんです。ということは、スタンスが先に来るんじゃないかと思って。

――小説家のスタンスとはどういうものでしょうか。

奥泉:僕の感覚では、死に関わっているんです。大げさに言うと、小説家だって社会人として生きていくんだけれども、どこかで自分の生きている世界から離脱するようなところがあって、この世界から離れていく。学者もある意味ではそうだけれども、学者の離れ方と小説家の離れ方は違う。これは今にして思うことで、当時はそんな自覚はありませんでした。

――それで書き上げたものを新人賞に応募したわけですよね。

奥泉:たまたま220枚くらいの作品を仕上げて、その枚数で応募できるところがすばる文学賞しかなかったんだと思います。とりあえず送ってみたということは、誰かに読んでもらおうと思って書いたんでしょうね。それが最終選考に残って、そこからスタートでした。

――受賞には至らなかったけれど、のちにその応募作「地の鳥天の魚群」が『すばる』に掲載されたんですよね。

奥泉:そうです。何か掲載予定だった原稿が間に合わなかったんだろうと思います(笑)。僕が聞いたのは、選考会で後藤明生さんとか、僕の書いたものを褒めてくれる人がいて、当時の社長が「褒めている人がいるんだから」と言ったということですが、よく分かりません。余談ですけれど、面白かったのはある時友達が「小説書いたんだってね」と言ってきたんです。『すばる』なんて読んでいないだろうと思ったら、地方新聞の文芸時評に出ていたと言う。批評家の川村湊さんが書いてくれていたんですね。しかもそれが批評の連載の第一回だったので、気合をいれて絶対人が取り上げないようなものを書こう、ということだったそうです(笑)。
それから1~2年は小説を書きながら研究もして、二股をかける生活をしていました。「その言葉を」という作品を掲載してもらった時に、『ダ・カーポ』で中上健次さんがいい評価をしてくれて、他の批評家もそういう奴がいるのかと気づいてくれて、そこからなんとなく職業作家としてやっていこうかなと思いました。

» その5「面白いと思える小説をどれだけ持てるか」へ