第156回:沢村凜さん

作家の読書道 第156回:沢村凜さん

架空の国を舞台にした骨太なファンタジーから、ご近所ミステリ連作集までさまざまな作風で読者を楽しませてくれている沢村凜さん。幼い頃から本好きだった沢村さん、ご自身の作品にも多分に反映されている模様。グァテマラに住んだ経験やその頃読んだ本など、貴重な体験も交えて語ってくださっています。

その2「松江で小説を書き始める」 (2/5)

――さて、大学は獣医学科に進んだそうですが、志望されていたのですか。

沢村:地方にいたせいか、その頃私のまわりでは女子が四大に行っても就職できないと言われていたんです。資格を取らないと駄目で、文学部に行きたいと言っても許してもらえなかった。資格を取るのならということで選んだのが獣医だったんです。ですから、大変申し訳ないのですが、ものすごくなりたいというわけではなかったんです。動物は好きでしたが、だからといって獣医という仕事が好きになるかどうかは別なんですよね。進学する前に学校訪問をしたり獣医学科の学生に話を聞くということもできませんでしたから、入学してはじめて、人生にはとことん合わないものがあるということに気づきました。その頃獣医学科は6年制になる前の過渡期で、4年で卒業できたんです。院に進んで2年学んで国家試験を受けるという形式でした。私は4年で卒業したので国家資格は持っていません。 学生時代はそれほど小説は読んでいなかったかも。よく読んでいたのは教科書でした。でも、その頃にサンリオSF文庫がフィリップ・K・ディックをいっぱい出していたので、いくつか読みました。サンリオ文庫は値段も高かったので、『最新版SFガイドマップ 作家名鑑編』の上下巻は好きな作家が載っている下巻だけ買って、そのうち上巻を買おうと思ってそのままになってしまいましたね。

――卒業後はどうされたのですか。

沢村:地元のタウン誌で1年間働きました。休みもなく寝る暇もない1年でした。原稿書きも編集もデザインも、配本までやりました。内容も充実した雑誌でしたし、いろんなことを叩きこまれて非常にいい体験をさせてもらったけれど、あれ以上は体がもたなかったと思います。その後はノンフィクション的なものを取材して書くライターにも憧れましたけれど、広島なのでシェアが少ないし、あんなに過酷な仕事はもう無理だと思いました。諦めた最大の理由についてですが、相貌失認という言葉はご存じですか。

――人の顔が憶えられないという?

沢村:それなんです、私。タウン誌の取材で1時間2時間顔を合わせていても、その後その人と広島の街ですれ違っても絶対分からない。これは難しいなと思いました。

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――現在も、たとえば担当編集者さんの顔が分からなかったりしますか。

沢村:定期的に会っていれば分かってはくるんです。でも、編集者の方が休日にご家族といる時に街中で会ったら気づかない可能性が大きいです。小学生くらいからなんとなくおかしいな、とは思っていたんです。その頃は「相貌失認」という言葉はまだ使われていませんでしたが、佐々木倫子さんが『花とゆめ』に描いていた『食卓の魔術師』を読んだら、主人公が人の顔を憶えられない人で。リアルに自分のことだと思いました。私一人じゃないんだと安心しましたし、自分みたいな人間が周囲からどう思われているのかも知ることができました。小説や漫画には、そういう力もありますね。あの漫画を読んでいなかったら、こんなに人の顔を憶えられない人間は世界で私一人だけだといつまでも感じていたと思う。読んで本当によかったです。 当時は「別マ」全盛期でしたが、私は『花とゆめ』っ子だったんです。『スケバン刑事』と『ガラスの仮面』の第一回を雑誌で読んでいるというのが自慢です(笑)。どちらも第一回から尋常ではない迫力がありましたね。

――その後お仕事はどうされたのですか。

沢村:情報誌のような、機械的な作業だけで残業のない会社に入り、一回結婚して夫の仕事の都合で松江に1年間だけ住むことになりました。1年間だけなので仕事を探すわけにもいかず専業主婦をしていました。松江にいた頃に恵まれていたのは、家の近所に郊外型の大きな本屋さんがあったことです。そのお店の品ぞろえがとても良かった。数年たってはじめて知ったのですが、今井書店という鳥取に本店のある書店で、「本の学校」などいろんな活動もしているお店でした。考えてみたら、学生時代も鳥取だったので、サンリオ文庫を買っていたのも今井書店だったかもしれません。 松江にいた頃にいちばん憶えているのは、今井書店でアーサー・ヘイリーを買って読みまくっていたこと。『ホテル』などを書いた人ですね。予定調和の王様みたいなところがあるので今読むと物足りないのかもしれませんが、続けて読んでいるとハマるんです。 この頃に小説を書き始めました。家でできる仕事で、自分に何ができるかを考えたんです。できないことを数えたらたくさんある。人並みにできることって何かあるだろうかと思った時に、文章を書くということだけが残りました。それで、何か書いてみることにしたんです。最初は目の前にある情景にとりあえず無理矢理ストーリーをつけた普通小説を書こうとして失敗しました。

――幼い頃言われた「日常のことを書いてみたら」が心に残っていたのかもしれませんね。小説を書くために何か参考にしたものはありますか。

沢村:当時は小説の書き方の本もあまりなかったのですが、自分にとって良かったのは本多勝一さんの『日本語の作文技術』と井上ひさしさんの『私家版日本語文法』です。その2冊だけを読んで素直に自分が書けるものを精一杯書いたのが『リフレイン』でした。ファンタジーを意識して書いたわけではなかったんですが、応募先を探したら日本ファンタジーノベル大賞があったので応募しました。当時は時代小説やミステリ以外では、ファンタジー系が応募できる新人賞は他になかったと思います。

――それで第3回日本ファンタジーノベル大賞に応募して、最終選考に残ったわけですね。応募作の『リフレイン』は翌年の1992年に単行本が刊行されましたね。

沢村:井上ひさしさんが大変気に入ってくださって強く推してくださったことと、当時まだ景気がよかったこともあって、ハードカバーで刊行されました。その頃は最終選考に残ったものは受賞しなくても何らかの形で刊行されていたと思います。でもそれが自分の作家人生としては良かったのか分からないですね。はじめて書いた小説で単行本でデビューしてしまったので、どうしていいのか分からなくて、長いこと途方にくれていたんです。

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